ほんとうの扉
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  ◇ 魂の構造・宇宙の構造                              


ほんとうの扉

■ 魂の構造 +肉体とは +複体とは+・幽体とは +霊体とは +真我とは  ■一霊四魂
■ 宇宙の構造 +現象世界とは +実相世界とは +現実界とは +中有とは +幽界とは +霊界とは +天界とは +絶対界とは
■神社における神霊

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◆ 魂の構造 ◆
ここでは実在の世界である「実相の世界」と、仮に存在する世界である「現象の世界」との中から、主に「現象の世界」の魂について、その構造を考えてみましょう。


私たちは肉体をもった人間という存在です。しかし、同時に私たちはスピリチュアル(霊的)な存在でもあります。
「肉体」とは、私たちがいま生きている現実世界である「縦・横・厚み・時間」という、すなわち4次元の時空間に滞在するために必要な、一種の宇宙服(皮衣)のようなものです。そしてこの宇宙服は、私たちのこころ(意識)がその影として創りあげたものです。

波動の一番粗い「肉体」を基準点として考えると、私たちの構造は以下のようになっているようです。

 
【肉体】 ⇒ 【複体】 ⇒ 【幽体】 ⇒ 【霊体】 ⇒ 【真我】
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【肉体】とは

言わずもがなですが、現象界(現実界)で私たちの肉眼が目にしている「体」のことです。波動的には一番粗大なもので、ゆえに物質として顕われています。4次元の時空間を生きるために必要な「体」です。
肉体とは、私たちのこころ(意識)の影であり、こころ(意識)の鏡であり、こころ(意識)をバランスさせているものです。
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【複体】とは
別名を【エーテル体】とも呼びます。【肉体】と【幽体】連携させる働きをしています。
私たちは、夜眠っている間に、無意識状態のうちに体外離脱している場合がよくあります。このような時は、エーテル体で行動していることが多いようです。体外離脱したエーテル体と肉体とは、絹糸のような細い糸状のもので繋がっています。ですから帰るべき場所を見失うことはありません。
私たちはどうして眠っている間に体外離脱をするのでしょうか。私たちは肉体が眠っている間に体外離脱することによって、幽・霊界でエネルギーをリチャージしているようです。つまり充電をしている訳ですね。
実は「現象の世界」(現実界)のほうがいうなれば別荘のようなもので、ほんらいの家は「霊界」にあるのですから、体外離脱とは私たちが必要なものを取りに一時帰宅しているようなものなのです。実家に帰ってほっとするひと時を過ごして、リフレッシュしているのかも知れません。
私たちは死んでから後、肉体を離れたあとも、50日(49日)間はエーテル体として現実界と「幽界」の間に逗留しています。仏教ではこの期間を「中陰」といい、これは「幽界」の前室にあたる領域での活動をさしています。
仏教においては、死んだ後7日ごとに審判が行われ、その7回目の審判が三途(欲界・色会・無色界のどこかへ赴く)を左右する大審判です。この日をさして「満中陰」ともいいます。そこで、残された遺族が49日の法要を営み、その大審判を故人が無事に通過できるようにと願うのです。
神道ではこれを50日祭と称して、やはり故人の御霊の祭典を行います。仏教も神道も同じ期間を示唆しているところが興味深いことろです。
50(49日)日目に行われる大審判は、「照魔鏡」とも呼ばれる「霊的スクリーン」に、その霊魂の肉体としての一生が映像として映し出されて行われます。その際には、関係の深い高級霊が死んだ霊魂をサポートしてくれます。
死んだ霊魂自体も、肉体を離れていることで、肉体を持っていたときより確実に感覚が鋭敏化されていますので、客観的に自分の送ってきた人生を振り返ることが出来ます。実人生では気にも留めなかったことを、実に重大に評価することもあるでしょう。
この大審判の場は、「善い」「悪い」を判定する裁きの場でも、褒章や評価の場でもありません。あらゆることはいつでも「善い面」と「悪い面」とを併せもっているものですから、あらゆる事象について善・悪を判定することは不毛なのです。人生におけるその行為が魂「霊性」の向上に役立ったのか、または、その行為が果たして「ほんらいの霊性」を表現していたのか。あるいは自らの「霊的」目標を推進し、達成するための取り組みができたのか、それらに自ら気づくことが審判の意義するところとなるでしょう。
この「照魔鏡」による振り返りを行った後、霊魂は「幽界」へと進んでゆきます。

私たちの霊魂は、「死ぬ瞬間」に大きな衝撃を受けるのが普通です。肉体から霊魂が離脱するときには、大きなバイブレーションを伴うからです。そのような場合、あまりに強烈なバイブレーションに霊魂が気を失ってしまうことがしばしばあります。特に重たい病気で苦痛のうちに死を迎えたり、事故などで突然の死を迎えたり、誰かに対して強烈な恨みや未練などの感情を残して死んだ場合がそうです。
そのようにして気を失ってしまった場合、本人(霊魂)が気がつかないうちに自分(霊魂)は肉体を離れて移動し、気がついたときにはすでに「幽界」の前室にぽっかりやって来てしまっているのですから、本人は自分が死んだことを忘れてしまっている(あるいは気がついていない)場合が多いのです。
そうすると当然現実世界のことを強く考えます。すると、まだ「幽界」にも移行していないどっちつかずの霊魂ですから、現象界を思えば現象界に瞬間移動できますし、また自らの現象界への未練の念によって、ふたたび現象界へふらふらと戻ってきてしまう霊魂もあります。
そのような霊魂を「亡霊」とか「幽霊」とか「浮遊霊」とかいうのです。
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【幽体】とは

別名を【アストラル体】といい、「幽界」という領域で過ごすために必要な「体」のことです。
私たちは現実世界での時間を終えると肉体を離れます。もはや必要の無くなった現実界用の皮衣を脱ぎ捨てるわけです。そしてまず向かう場所(領域)が「幽界の前室」だと前述しました。霊的スクリーンによる振返りと気づきもその前室で開かれました。
振返りと気づきを終えて、次に赴く領域が「幽界」です。そこは私たちが肉体の臭いや現実界の残滓などを払い落とすために、しばし滞在するための領域です。「霊界」の待合室のような、待機室のようなところだと考えてもらえればよいでしょうか。
たいていは、広場のような場所で待っていると、見覚えのある迎えの霊魂がやってきます。それはごく近しい人の霊魂であることが多いのです。あなたの死に別れた配偶者であったり、両親であったり、祖父母であったりという具合にです。
そうして、あなたは近しい霊魂に引き連れられて、今度は「霊界」に向かって旅立ってゆくのです。
「幽界」のもうひとつの面は、迷いの領域としての面です。
「幽界」も現象の世界のひとつです。つまりは、二元的な相対の世界であり、こころの法則に支配されている世界ですから、その点において、現実世界と大きな違いはありません。多少は波動が高まっているので、肉体は必要ないというだけです。
このようなことから、幽界までやって来ていながら、自らの信念に引きずられてしまう場合があります。
たとえば、重病で死んでしまった場合で、あまりにその病気の印象が強かったために、その病気をまた幽界において顕してしまうことがあります。肉体を脱して霊魂となっているのに、また肉体の病を再現してしまうのです。
また、自分を深い罪悪感で責め続けている場合などは、自ら責め苦の領域を信念によって創りだし、その領域の中に閉じこもって自らを責め続けてしまう場合もあります。煉獄のような自己処罰としてのこの領域を、自らの信念が創りだしているとは、その領域に囚われて苦しむ霊魂は知る由もありません。
このように心のままに顕われるのが現象世界の法則であり、しかも波動がいくらか高まったことで肉体などの物質から離れている分、現実世界よりもその思い(信念)が現象の創造に直結しやすい環境にいることになります。ですから、地獄をこころに描いていた霊魂は、自分が描いていたような「地獄」を自分の信念によって創りだしてしまうというように、自らのこころのあり様がストレートに現象に顕われてしまうことになるのです。
悲しみの領域を創りだして、その中に落ち込んでいる霊魂。恨みの領域を創りだして、その中に囚われている霊魂。争いの修羅を描き、その領域で這いずり回る霊魂。焔のような怒りの存念から心の闇の領域を創りだし、その中でのたうつ霊魂などなど、自らの強い信念体系が創りだした現象は、現実時間を離れているために、時間の概念を越えて続くのです。
それらの霊魂にとって、その現象領域がまぎれもない現実であることは、私たちのいま滞在している「現実界」とまったく同じ意味合いなのです。
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【霊体】とは
「霊界」という領域で活動するための「体」です。「霊界」とは、現象世界としては一番高位の領域です。そして、霊魂のふるさととも言える領域でもあります。
近しい霊魂に伴われて「幽界」を旅立った霊魂は、この「霊界」までやってくると、やがて自分の生まれ育った「村」へと還って行きます。そこは「ソウルメイト」たちが集まっている場所です。
その場所は同じバイブレーション(波動)を持つものたちが集まってできた村ですから、ここ以上に居心地のよい場所は見つけられないというくらい、すべての感覚がフィットするとても素晴らしい領域です。
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【真我】とは
別名を【アートマン】とか、【コア】とか呼ぶ場合もあります。霊魂の中心にあり、「絶対理念」そのものでもあります。
「ほんとうの自己」・「そのままのこころ」つまり「ほんとう」とは、【真我】のことをさしています。
真我は【絶対理念】の部分であり、また全体です。
生命そのものであり、【ある】という実在そのものなのです。
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◆ 一霊四魂 ◆

日本古来の【古神道】では、霊魂について「一霊四魂」という考え方を持っています。
一霊とは、「直日霊」(なおひのみたま)のことで、いわゆる私たちの霊魂のことです。それを四つに分けたのが、四魂であり、それは「奇魂」(くしみたま)・「和魂」(にぎみたま)・「幸魂」(さちみたま)・「荒魂」(あらみたま)の四つの魂をさしています。「直日霊」というひとつの霊魂が、四つの魂の働きを持っているということになるでしょう。
「奇魂」とは、叡智の御魂であり、肉体が死して霊魂が脱したとき、直日霊に還る魂のことです。
「和魂」とは、肉体が死した後は天界に昇って、天界を拠点として多くの人々のために活動する魂の働きです。
「幸魂」とは、位牌などの祭祀されたところに宿り、祀ってくれた家族などを見守っている魂の働きをさします。。
「荒魂」とは、物質界を活動の場とするときに働く魂で、いうなれば「肉体」そのもののことです。古神道では、肉体をも物質と視ないで、霊的な働きと視ているのです。肉体が死して墓地などに埋葬されると、「荒魂」はその埋葬されたところに鎮まっているのです。
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◆ 宇宙の構造 ◆

ここでいう宇宙とは、天文学や物理学でいう宇宙のことではありません。
私たちの「霊魂」が旅する「宇宙」のことです。
前項の、魂の構造のところでも少しご紹介しましたが、霊魂の状態によって、いくつかの領域がありました。以下にもう一度整理してみましょう。

【現象世界】  【実相世界】  【絶対理念】

【現実界】
 ⇒ 【中有】 ⇒ 【幽界】 ⇒ 【霊界】 ⇒ 【天界】  【絶対界】
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【現象世界】とは
現象世界は【絶対理念】の裡(内部)に存在しています。
現象世界は、明るい⇔暗い、高い⇔安い、美しい⇔醜い、ひとつ⇔複数というように相対の世界です。対極のものの存在にたよって、そのものを体験するという世界です。
【絶対理念】は一元であるがゆえに、絶対理念そのものを体験することができません。そこで「絶対理念」は自らを体験するために、【御分霊】(わけみたま)であり、分身である私たち「生命」を自らの内部に創造しました。
そして、分別(二元的)の世界であり、相対の世界である【現象世界】を自らを体験する場として創造されました。
このことにより、【絶対理念】は私たち「生命」が【現象世界】で体験を重ねることにより、自らを体験するということを初めて得たのです。
【現実界】も【中有】も【幽界】も【霊界】も、ともに【現象世界】です。
現象世界は認めたものが顕われる世界です。「ある」と認めれば顕われるし、「ある」と認めなければ、顕われることはありません。
また現象世界は幻の世界であり、仮りに存在する世界であり、一期生滅の世界であり、原因と結果が連鎖する世界です。
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【実相世界】とは
実相世界は【絶対理念】の裡(内部)に実在しています。
感覚としては、【絶対理念】と弧を同じくした円のようなイメージでしょうか。
「現象世界」はこの実相世界の裡に創られています。「絶対理念」と「実相世界」と「現象世界」の位置関係をよく理解してください。
実相世界は、一元の世界です。善一元の世界であり、愛一元の世界であり、すべて善きものの世界です。「真・善・美」の世界といってもよいでしょう。
実相世界は、あらゆるものがすでに「ある」世界であり、分別を離れ相対を脱した「絶対の世界」であり、永遠不滅の世界であり、原因も結果もない「そのまま」の世界です。
実相世界の生命(霊魂)たちは、実在の生命(霊魂)たちであり、「絶対理念」と一体(一如)の生命です。それらの生命の反映が、現象世界の生命(霊魂)たちなのです。現実界の肉体が、こころ(意識)の影であるように、現象世界の生命(霊魂)は、実相世界の生命(霊魂)の影なのです。
生命(霊魂)の本体は、いつでもいつまでも実相世界に常住しているのです。ですからすべての生命(霊魂)はすでに救われ済みの、すでに悟った、すでに解脱した生命(霊魂)だといえるのです。

【天界】と【絶対界】が【実相世界】であるといえますが、【現象世界】を含んでいるという関係からいうと、【現実界】も【中有】も【幽界】も【霊界】もすべて、【実相世界】であるともいえます。
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【現実界】とは
いうまでもなく、いま私たちが生きている現象界の中のひとつの世界のことです。
現実界は現象界の一部ですから、こころの法則が働いている世界です。波動的にはもっとも粗い波動の世界であり、ゆえに、物質の世界です。
現実界に存在するすべてのものは、実相世界を源としています。その仕組みをたとえれば、テレビを観る原理と似ています。
現実界は、実相世界からの放送電波で満ち溢れている世界だといえるでしょう。あらゆるものがすでに電波として出力されて満ちているのですから、私たちが手にしたい現実があるとすれば、その電波をアンテナで受信してテレビ受像機に映し出せばいいのです。
具体的には、テレビを観るために観たいテレビ番組の放送周波数に受像機を同調させるように、手に入れたい現実の波動に自らのこころの波動を同調させるようにチューニングすればいいのです。そうすれば、テレビの画面に観たい番組が映し出されるように、あなたを取り巻く環境にあなたが手に入れたいと念願した現実というものが現出するのです。
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【中有】とは
中有という領域は、「複体」の項で書いたように「幽界」の前室です。
私たち人間の霊魂は、肉体が死を迎えると肉体から離脱します。まず首と後頭部の繋がるあたり、「ぼんのくぼ」と呼ばれるあたりからはみ出すようにして肉体を離れ、死を迎えた自分の身体の数メートル上に浮遊する状態になります。
しかしこのようなケースは、いわば模範的なケースであり、誰もがこのようにスムースに肉体を離脱できるわけではありません。
人が死ぬ状況を見聞きすると、なぜだかそれまで付き添っていた人がちょっとトイレに行った隙にとか、寝静まった朝方をタイミングとして選ぶとか、あるいはいったん元気になって周囲を安心させた直後とか、おおよそ死への旅たちに際して霊魂たちは、自分ひとりだけでそのときを迎えることを望むようです。
もちろんそれには理由があります。ひとは死の瞬間前後から始まる霊魂の肉体離脱のプロセスを、特に近しい身内に付き添われ、囲まれることで邪魔されたくないのです。それは大抵の場合、霊魂が肉体を離れる大切な瞬間に、近しい人のこころが乱れるのが常だからです。
「死んじゃいや」とか「死なないで」とか、離脱工程を邪魔する波動のことばを、近しい人たちは発することが多いのです。旅立つ霊魂たちはそのような波動の言葉をなるべく聴きたくないのです。それは近しい身内のことばが、肉体から離脱しようとしている霊魂に対して、とても強い影響力をもっているからです。
霊魂のマインドがそれらのことばの波動に影響されると、スムースに肉体からの離脱を果たせないこともありますし、場合によってはタイミングをはずしてふたたび肉体へ戻ってしまうことさえあるのです。
ですから、近しい身内が死を迎えようとしているときは、静かに見送ってあげることが霊魂にとっての益になるのです。
だからこそ人間は死を迎えるとき、不思議と孤独に逝こうとするものなのです。

肉体から離脱した霊魂は、自分の死んだ肉体(亡骸)と悲しむ家族などの状況を俯瞰して、自分の置かれている状況を理解します。つまり、肉体が死を迎えたことを受け入れるのです。
まれに肉体からの離脱のときのバイブレーションが強烈過ぎて、しばし気を失ってしまう霊魂もあります。そのような霊魂は、気がついたときにはもはや亡骸がなく、自分の死を亡骸を眺めることで確認できない状況になってしまいます。そのような場合には、葬儀などの儀式や、墓や仏壇や位牌などが役に立つことになるでしょう。いずれにしても、自分がすでに肉体的に死んだのだと自覚することが、迷わないことの第一条件なのです。

自分の肉体的な死を受け入れた霊魂は、ふたたびバイブレーションとともに転位します。今度は「幽界の前室」へとやってくるのです。このときの転位のバイブレーションを、臨死体験者は暗いトンネルをの中を轟音とともに抜けていったなどと表現しています。
「幽界の前室」へやってくると、霊魂はしばし休息をとります。このとき気が向けば、現実界へすぐにやってくることも出来ます。家族に会いたい場合は、自由にそばに寄り添うことができるのです。物質の肉体をもはや持っていないので、直接肉親に触れることは叶いませんが、念波で意思を伝達したり、夢枕に立ったり、幻として現われたりすることができます。最後の別れを惜しんだり、自分が本当の意味では死んではいないことを伝えようとする霊魂もいるのです。
この「幽界の前室」で休息していると、あなたの会いたい人がやってくることもあります。
そして親しくことばを交わし、懐かしい人とのひと時を過ごす場合もあります。すでに肉体をもってはいませんが、その残像としての「体」を引きずっていますから、身体を持っているような感覚もまだ残っています。
やがて、来るべきときが来ると、「霊的スクリーン」によって自分の今生の人生を振り返ることが告げられます。そのときには、あなたをサポートする「高級霊」があなたのそばにいるでしょう。サポートの高級霊はあなたの先祖である場合が多いのですが、いずれにしてもあなたのすべてを受け入れて、あなたとともにある霊魂です。あなたはそのサポートの高級霊とともに、安心して自己の直前の人生を振り返ることができることでしょう。
しかし、そのとき「霊的スクリーン」に映し出される映像には、そんなあなたを慟哭させる場面も数多くあるかも知れません。
あなたは人生の「そのときには」、あなたが為したその行為に対して何も感じなかったかも知れません。しかし、いまのあなたは少し違います。それは肉体を脱して波動が高まったことで、あなたがそのときよりももっと客観的に俯瞰したものの捉え方ができるようになったからです。そしてそのお蔭で自分の選択や行動を促した判断基準の意味を識り、それによって起こった事実や結果の意味も識るでしょう。
今のあなたは関係する相手の気持ちになって、そのときの選択や行動を振り返ることもできるのです。
「霊的スクリーン」で人生を振り返ったあなたは、霊的にもう少し成熟していれば自分がもっと良い人生を過ごせたことを感じるでしょう。実際その可能性は無限にあったのですから。
しかし同時に、この人生にも大きな意味があったことも感じるでしょう。ほんらい引き起こされる事象に無駄なものなどないものなのですから。
そして、自分があらかじめその人生で計画した目標について、どのような成果が上げられたのかを推し量り、次の人生の可能性について考え始めているかも知れません。
そうしてやがて、あなたを迎えにまた別の霊魂がやってきます。今度はその霊魂にしたがって、あなたは幽界へとすすんで行きます。
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【幽界】とは
幽界は、霊界の待合室のような領域です。現実界から引きずってきた肉体の残像や、残滓、あるいは死臭などの霊界にふさわしくないものを、きれいに浄化するための領域でもあります。
中有と同じく、幽界は比較的短い期間(時間の観念は現実界よりもかなり希薄ですが)を過ごす場所です。それはこの幽界が、やがて行く霊界への準備の領域であるからです。
幽界で過ごす間に、私たちの霊魂は浄化せられ、身に着けていた不要なものを脱ぐように、余分な意識をも捨ててゆきます。そうして、ほんらいの「霊的本性」が顕われてくるときを待つのです。

幽界にはもうひとつの重要な領域の意味があります。それは、信念体系によって創りだされる個人的な「囚われの領域」を併せもっていることです。
幽界も現象界のひとつですから、こころによって認めたものが顕われる世界でもあります。幽界の前室からやってきた霊魂が、自分がもはや現実界を脱したことを認識できずに、ふたたび自らの「囚われている存念」を具象的に創りだす事ができる場所でもあるのです。
肉体が病気であったことに囚われている霊魂は、ふたたび病気である自分を自らの想念から創りだし、また同じ病気で苦しむことを選ぶかも知れません。
恨みや憎しみに凝り固まった霊魂は、自ら恨みや憎しみの領域を創りだし、その恨みや憎しみの領域に閉じこもってしまうかも知れません。
あまりに肉体的な快楽を貪ることにこだわり続けた霊魂は、快楽を貪るための領域を自ら創りだし、その中で己の存念を燃焼し続けるかも知れません。
それらは「霊界」への道を閉ざす「念」です。それらの「念」を捨てなければ、霊界へ赴くことは叶わないのです。それらが障害となることは、それがあまりにほんらいの霊性と「霊的波動」が異なっていることを因としています。
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【霊界】とは
霊界とは、私たちの霊魂の現象界での「ふるさと」です。現象界の霊魂の還るべき場所ともいえるでしょう。
幽界おいて導きの霊の迎えを受けた私たちの霊魂は、自らの「霊的本性」のままに引き寄せられるように、霊界のそれぞれの場所へとすすんで行きます。
その場所は、実に居心地のいい場所です。あなたがほんらい欲していたあらゆる要素を包み込んだ領域であり、同じ領域に集う霊魂は、あなたと同じ霊的本性をもった、兄弟姉妹のような親友のような霊魂たちだといえるでしょう。そのような意味でそこは間違いなく、あなたの現象界での魂のふるさとなのです。
霊界は現実界のような時空間に限られているような領域ではありません。霊魂たちは、なにかの乗り物によって移動する必要もありませんし、言語を介して意思を通わせる必要もないのです。自分の意識の働きのままに時空を移動し、言語の壁に阻まれることなくこころそのままにコミュニケーションできるのです。
そのような環境の中で、霊界のあるべき場所に還ってきた霊魂たちは、思い思いの楽しみを純粋に楽しみ、あるいは、さらに霊性を高めるための活動を行うのです。

そうして時が過ぎ、やがて霊界で過ごす霊魂たちに再び選択のときが訪れます。
このまま霊界での生活を通して自らの霊性の向上を図るのか、それとももう一度現実界に転生して、肉体人間としての生活の中で霊性の向上を図るのかを選択するときがやってきたのです。
そのときが来ると、指導役の高級霊が霊魂のもとにやってきます。そして霊界にとどまるか、転生するか、どちらがその霊魂にとってよりよい結果をもたらすかを告げるでしょう。
転生を示唆された霊魂の中には、霊界での生活があまりにも快適で意義深く、また喜びも多いものですから、新たな転生を拒むものもいるようです。しかし、指導役の高級霊に転生の意義を説かれ、霊魂たちはおのずから己の行くべき道を悟るのです。
転生して行く霊魂たちは、この次の現実界(次生)での霊性向上のためのカリキュラムについて、指導役の高級霊たちと話し合います。なにを体験することが有意義なのかをいろいろな面から検討するのです。
そして、そこで人生の大まかなスケジュールを立てます。どのような家系の、どのような両親のもとに生まれ、どのような環境で育って行くのか。そうしてどのような人生を味わうのか。出逢うべき人とそのタイミング。遭遇する事象とそれからの変化の方向性などなどについてです。
私たちは、自分の人生に責任を負っています。その示す意味がこのことからもわかるでしょう。
それは私たちが自分の人生を自分の意思で計画し、それにふさわしい環境と肉体を準備して、そうして生まれてくるものだからです。
転生の計画を立て、その準備が整うと、転生すべき霊魂たちは、母の胎内の胎児へと下生してゆきます。そして、計画通りに自ら宿る胎児を完成させるのです。
転生の霊魂が本格的に肉体へ宿るのは、誕生のその瞬間です。しかしそれまでにも、霊魂たちは霊界と胎児との間を行き来しています。そして大抵の場合妊娠6ヶ月を過ぎると、ほとんどの時間を胎児に宿って過ごすようになるようです。
胎児とのかかわりあい方の学問として、胎教というものがありますが、母親の子宮内にいるこの期間がとても重要な期間であることに間違いはありません。この期間には胎児の意識はすでにあり、母親の言葉やまわりで起きる事柄をすでに認識しています。このことからも母親やそのほかの人々とのふれあいが、後の人生に大きな影響を与えることになるようです。
また出産直後が特に大切であることは、出産が胎児にとって精神的にストレスの多い出来事だからでもあります。
考えてみればわかりますが、出産まで母親の子宮内で過ごした数ヶ月間は、母親との一体感という意味から胎児にとってまさに至福の時間だったことでしょう。
それが一転して母親から分離され、苦しみながら見知らぬ世界へと出てきたのです。その驚きと戸惑いは計り知れません。
だからこそ、生まれてからの最低1週間は片時も母親から離されるべきではありません。そして3ヶ月は出来うる限り母親は一番近くにいるべきです。その時期の不安や恐れが、将来の性格や人格に大きな影響を与えることが研究によって明らかにされつつあります。
そしてその意味で赤ちゃんが3歳に至るまでは、母親は育児に専念すべきなのです。
私が現在行っている「ヒプノセラピー」においても、退行催眠誘導で「胎児」から出産へ至るの状態の意識へ戻るセッションを行っています。
このセッションは、「胎児」の時期や出産直後に受けた精神的ストレスやトラウマを、再体験して再構築するために行うセッションです。
この時期の記憶は誰もが例外なく忘れてしまっているものですから、催眠誘導によって思い出すことが出来ることには、大きな意味があります。もしもこの時期のストレスやトラウマが現在のあなたによくない影響を及ぼしていたとしても、それに気がつかなければそれを解消することも出来ないからです。
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【天界】とは
天界は、いままでの霊界や幽界などとは、少し意味合いを異にする領域です。
天界の住人は、神なるもの(高き御位の神霊)たちであり、至高の精霊たちであり、特に選ばれた高級指導霊たちです。
ここでいう「神なるもの」とは、神そのもののことではありません。絶対理念の働きのある部分というか(ある意味ではすべてがそうですが)、具体的には、我々が存在しているこの現実界では、神社などに鎮まっている「神」という存在をさしているものと考えてくださればより近いでしょう。
現象界の霊魂たちを、護り、導き、励ましてくれている、それは極めて霊性の高い霊的存在たちなのです。
それらの存在のあり様を表現すれば、まさに「光」そのものだといえるでしょう。またその性質は、「愛」そのものだともいえるでしょう。
まれに、霊界で霊的に向上した霊魂が、天界に昇って、神霊として活動することもあるようです。
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【絶対界】とは
絶対界とは、絶対理念そのもののことです。
絶対界はすべてのものを包含して実在しており、「ある」ものは、「それ」だけであり、そしてそれはあらゆるものであるがために、限定を拒むものです。もし無理やりに表現する必要があるときには、それを「絶対理念」と私は呼称しています。しかしほんらい言葉の概念で限定すべきものではありません。
それは【ヴェーダ】でいう【ブラフマン】であり、【神道】でいう【天之御中主神】であり、【キリスト教】でいう【ヤーウェ】(エホバ)であり、【仏教】でいう【法】(ダルマ)であり、【太霊】であり、【大我】であり、【大宇宙】であり、【神そのもの】です。
実相界も現象界も、容のあるものも容のないものも、あらゆるものすべてを裡に蔵し、あらゆるものすべてを実在ならしめ、そしてそれらそのものであるのが【それ】であり【絶対理念】なのです。
私たちはいま、その絶対理念の裡に実在する生命であり、絶対理念そのものでもあるのです。すべては絶対理念一如です。すべては分かち難く「絶対理念」として一体なのです。
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◆ 神社における神霊 ◆
日本にはたくさんの神社が鎮まっています。
屋敷の庭に地主神の祠のある家もあるでしょうし、すぐ近所の鎮守の森にも神社がありますし、氏神様に郷社に県社、あるいは一宮といって、「河内の国」というように、昔の行政区ごとに大きな神社が鎮まっています。もちろん、伊勢神宮や出雲大社や熊野本宮大社などの有名な神社もあります。
日本の国が中央集権国家として存在するようになるより前から、「随神(かんながら)の道」という表現で神道は生きていました。それはあまりに生活と密着したものだったので、宗教という別の枠で捉えるものではありませんでした。それゆえに「神道」という言葉は、仏教が伝来してからそれに対応するものとして生まれた言葉なのです。
容のあるものから容のないものにまで、私たちの祖先は神意を感じて畏敬の念をもち続けてきたのです。
神道とは、いわゆる宗教ではありません。いうなれば、私たちと神なるものとの交流の表現そのものです。
神道には「顕祭」と「幽祭」という言葉があります。神なるものは偏在しているものです。ここにも、あそこにも、あちらにもあり、そしてそのいずれにもあるでしょう。それらの神霊に、端座瞑目してこころを向けることが「幽祭」です。また、古くは「ひもろぎ」をしつらえたり、「磐座」をもうけたりして神霊を降ろし、その御魂を鎮めたのが「顕祭」です。それらは車の両輪のように互いに補い合い、欠くことができないものです。そして、その発展形がいまの神社になっています。
しっかりとお祭りされている神社には、高き神霊の息吹が宿っています。その息吹は「天界」からの息吹です。
「天界」におわす、高き御位の神霊のバイブレーション(波動)が鳴り響いています。
それらのバイブレーションを感じられる神社に赴き、神霊との霊的交感をされることを是非お勧めします。
尚、氏神と産土神と鎮守神とを混同している風がありますが、これは似て非なるものです。
氏神とはすなわち一族の祖先をお祭りした神社で、藤原氏の春日大社がそのよい例です。一方産土神とは、私たちが生まれた土地を担当している神のことを指し、ゆえに私たちは初宮参りにその産土神社へ赴くのです。この産土神との関係はその後も一生変わりません。どこへ移転しても生涯私たちを護り導いてくれる神霊です。
また鎮守神とは、ある地方の一地域に鎮まっている神のことを指しており、これは日本中にくまなく配置されています。引越しをした先や会社のある場所など、その場所と深いかかわりが出来たときに関係をつなげる神霊です。

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