ほんとうの扉
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 □UP
  ◇ こころが病をつくる                     


ほんとうの扉


 ■ こころの旅 ■「病」はなぜ顕われるのか ■【病】からの解放を拒む人たち ■自己処罰としての病 ■前世や過去世から持ち越している病 ■隠されたメッセージ ■戦わずに和解する ■不整脈・花粉症が癒える ■感謝と笑い ■こころというレンズを正す ■生死を越えて ■掴んでいたものを放したとき

こころの旅
なぜ、私たちはこの世に生まれてきたのでしょうか?

それは、「私たち自身が、私たち自身で、私たちの魂の進化・成長を体験するためだ」ということになるのではないでしょうか。
私たちの人生は、現象世界というこの相対性の世界で、あらゆるものを体験し、味わい、そうして本来の自分をもう一度識るための、自己を再発見するための旅なのです。
たどり着くべき場所は決まっています。そして、誰もが目的の場所へたどり着くことが出来ます。誰ひとりとして、本当の意味で道を見失ったり、挫折したりする人はありません。私たちの魂の旅は、必ず、誰もが、めざす目的の場所へたどり着くことができる、「約束された旅」なのです。
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「病は」なぜ顕われるのか
あなたはいま、病に苦しめられていますか?
あなたがいま、病に苦しめられているとしたら、それはあなたがいま、人生の転換期にいるからです。
病はあなたを苦しめるために、あなたの肉体に顕われるのではありません。病は、停滞しているあなたのこころが方向転換できるように、その「契機」としての役割を担って、あなたの肉体に顕われてくるのです。
あなたの肉体にいま、何らかの病が顕われているのは、それはあなたのこころが行き詰まっているからにほかなりません。あなたの意識の底のこころは、あなたにこころの転換をせよと囁いていたのです。
しかし、あなたがあなた自身のこころの囁きに気付かなかったか、気に留めなかったか、あるいは気付いていたとしてもその囁きに耳を傾けなかったために、あなたの意識の底のこころは、あなたがあなた自身の意識の底のこころの囁きに耳を傾けずにはいられなくなるように、誰もが見過ごせない現象のひとつである「病」をあなたの肉体に顕したのです。
もしも、あなたが自分のこころの囁きに気付いて、そして「こころを転換」させていたら、病はあなたに顕われる必要はなかったでしょう。
病は、あなたを罰するためにあなたに顕われているのではありません。
病は、あなたに気付きを与えて、あなたのこころをほんらいの方向に転換させるためにあなたに顕われているのです。
では、こころの停滞とは一体どういうことでしょう。
私たちは本来「絶対の生命」でした。絶対とは「一」であり「如」であり、一元の世界です。
しかし、仮の世界(体験の世界)であるこの相対の現象世界で活動するために、意識の中にも「美しい:醜い」といった相対する両極性を持たざるを得ませんでした。
「絶対」の世界では、善のみが実在しています。ということは、善さえもない(如)ということです。善は、非善(善でないもの、つまり悪)があって初めて善として存在できるからです。
しかし、事象を体験するための現象界では善を認識する必要があります。そこで善が善であるために非善を自らの中から引き出してくることになるのですが、善が非善を引き出してくるということは、本来の意味では「善」は「非善(悪)」を内包しているということになります。しかし、認識のために善と非善が相対するということは、結果としては分離という現象を引き起こしていることにほかなりません。
このように私たちの意識の中に、善い:悪い、長い:短い、濃い:薄い、好き:嫌い、多い:少ない、といったふたつの極性が分離した形で存在するようになったために、意識がどちらか一方に偏るという不完全な状況が、結果としてとして起こり得ることになってしまいました。
つまるところ、本来すべてのものは離れがたく一体であるはずなのに、それを分離して意識しているためにこころはバランスを崩すのです。
このバランスの崩れこそが「こころの停滞」なのです。
そして、バランスしていないこころ(意識)をバランスさせるために、身体のどこかに病気が出現するのです。
禅僧は言います「分別を離れよ」と。この相対の世界にあって、相対を離れ「絶対」に立てとすすめます。「絶対に立つ」ことが出来れば、すべての矛盾が解消されるからです。そしてそれは概念化しようとする意識の働きを離れて、「あるがまま、そのままに生きる」ということです。
自分を取り巻く環境と同じように、病気もまた自分のこころの状態を表す現象だったのです。
病気とは、私たちが自らのこころのあり様を省みてその誤りに気づき、そうしてこころを転換してそのバランスを取り戻すまでの、ひととき代わりにこころをバランスさせておくオモリの役目を果たしていたのです。
身体はこころの影です。あなたの身体は、あなたのこころの反映(映し鏡)なのです。
陰陽で表すなら、陽がこころで陰が身体です。陽であるこころは太陽で、陰である身体は月とも換えられます。ですから身体を表す漢字には月(肉月)が付いています。たとえば内臓の臓の字、腕、肩、脚などがその例です。
こころの影としての身体に、こころの反映として病気が顕われるのです。

「ストレス」という言葉があります。
この仕事はストレスが溜まるから身体によくないとか、ストレスで体調が悪くなったとかいうように、いまでは一般的に使われる語句となっていますが、このことばはじつは工業的な用語です。工業用語的に説明すると「外的圧力に対する弾性体内部の反発力」ということだそうですが、 つまりは物質に力を加えたとき、力を加えられた箇所にはもとの形態を維持するために、補正する力が生まれるということです。
その働きを用いて、カナダの生理・病理学者のセリエが、高血圧や胃潰瘍の発症過程を説明する「ストレス学説」なるものを発表しました。その学説が認知されて世の中に広まるにつれ、ストレスという用語も一般的に使われるようになったのです。
この学説で注目すべき点は、病気の発症がこころと関係していると考えたところです。この学説以前では、病気の発症とこころとの間に直接の因果関係を視る学説はありませんでした。しかし、今ではこころが病気と関連していることは、一般の私たちにとっても身近な考え方です。いまではストレスで胃潰瘍になると誰でも考えていますし、もちろん医学者もこの考えを肯定しています。
私たちの心が外的圧力を受けたとき、私たちの心は自らを維持するために反発します。その補正的反発力が現象として肉体に顕われるのが「病」なのです。
「病は気から」という古い言葉がありますが、それは間違いではなかったということです。
病気はあなたのこころが偏った状態に陥ったとき、その偏向をバランスさせるために起こります。その意味では、私たちは病気によって救われている、ともいえるのです。
しかし、あなたのこころが整ってさえいれば、病気が活躍する必要もまた無いことでしょう。
私たちの身体は、本来病気にならないような精緻な仕組みになっています。私たちを自らの一部として創造した「絶対理念」は、全っき完全な実在であり、けっして不完全な実在ではないからです。
私たちの物質としての肉体は、この縦・横・厚み・時間という限定された領域で活動するように仕組まれていることから、おのずから限界があります。私たちはやがて老い、そして肉体的な死を迎えることになるのです。
しかし病は肉体の限界を示す働きではなく、こころの偏った部分を補正するために起こる現象ですから、こころが整えば「病」はその存在理由がなくなるのです。
あなたがほんらいそうであったように、すべてのものと一体であると認識できれば、病は雲散霧消するでしょう。
病とはそれを私たちに求めているこころの働きなのです。
そういう意味では、病はあなたにとってひとつの恩寵だといえるのかも知れません。
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「病」からの解放を拒む人たち
あなたは、ほんとうに病から開放されたいと願っていますか?
もしあなたがいま病に苦しめられているならば、まずあなたは、ほんとうに自分が病から開放されたいと思っているのかどうか、自分自身のこころに問いかけてみてください。
病が治ることを望んでいない人など一人もいない、とあなたは言うかもしれません。しかし、病はあなたが他人を支配するための、とても効果的な道具という側面ももっていることを忘れてはなりません。
私たちは、自分の利己的な意思を押し通して、自分を取り巻く環境を支配したいと考えることがあります。
しかし、大抵の場合、私たちは自分以外のひとを自分の思い通りに操ることが無益なことだと知って、その考えを実現することを思いとどまります。しかし、その思いがとても大きい場合、あなたは他人を操るために「病」を利用することを思いつくのです。
「病」という道具を使えば、あなたはあなたの周りにいる人たちの「同情」や「いたわり」の感情を利用して、あなたの周りにいる人たちを、あなたの思い通りに操ることが出来るのです!
このような動機が隠されている場合、あなたは病に苦しんでいたとしても、決して「病」という道具を手放そうとはしないでしょう。それはその人にとって、『病』を道具にして他人を操ることで実現している現在の状況が、病に苦しむこと以上によいことだと思っているからです。少なくともその人はそう思っているのです。
しかし、あなたは学ばねばなりません。支配するべきは他人ではなく、自分自身であることを。
ほんとうの問題解決とは、あなた以外の人を変えることで達成されるのではなく、あなた自身が変わることでなされなければならないということを。

病院の待合室に1時間も座っていれば、自分の病気を自慢しあう人たちと出会うことが出来ます。その人たちがどんな会話を交わしているかといえば、例えば「私はもう5年も肝臓病で苦しんでいる」とか、「私なんか7年も糖尿病と暮らしている」云々という具合です。
これらの会話は、単にコミュニケーションを図るためになされているのかも知れませんし、同じ年代の人との共感のために必要なのかも知れません。ですが、これもまた私たちが陥りやすい「病」のもつネガティブな効果のひとつには違いありません。
それらの会話をつづけることの結果、あなたが受け止めるべき現実は・・・もうお解かりでしょう。
「言葉」は未来の現実を創りあげるエネルギーです。それは、あなたのこころの奥にある「思念」がその言葉を生んでいることからきています。
ですから、このように「病」を自慢する会話をつづけている事の結果もたらされる現実とは、「癒されることのない日々」です。

そしてもうひとり、「病」からの解放を拒む人がいます。
それは、自分が犠牲者だということに固執して、いつまでも加害者のあがないを求めている人たちです。
ある研究者が調べたデータによると、交通事故によるけが人のうち、被害者とそうでない人とを比較すると、明らかに被害者の場合に治癒期間が長くなる傾向があるのだそうです。
このような現象はなぜ起こるのでしょうか?
イエス・キリストは言いました。「ひとを裁いてはいけません。なぜなら、あなたがひとを裁くときあなたもまた同じ剣で裁かれるからです」と。
例えば交通事故の被害者である人は、自分をこのような目に合わせた加害者を憎み、償いを求めていました。「あの運転者は私をこのような辛い目にあわせたのだから、きっと重い罪で裁かれねばならないのだ」、と彼は考えます。
そして周りにいるすべての人の支援を求めるために、その被害者は訴えるのです。「皆さん、どうかあのひとを罰してください。彼はとても悪いことをしました」。そしてその被害者はつづけます。その証拠に、この傷ついたわたしの惨めな身体を見てくださいと。
被害者であるその人にとって、傷ついた自分の身体は自分が被害者であるということと、加害者の犯した罪の「証拠品」なのです。
証拠品がなくなっては加害者を糾弾することが難しくなります。
ゆえに彼は「病」からの解放を拒むという道を選ぶのです。
もちろん、この方程式は交通事故だけに限りません。例えば自分の身体に「病」を顕すことで、特定の誰かに抗議の刃を向けている人もいるでしょうし、誰かに傷つけられたことを訴えるために、自らの肉体に病を生じさせているひともいます。このようにこの方程式は、自分を被害者だと感じているすべての人にあてはまる方程式でもあるのです。
この相対性の現実世界にいると、加害者と被害者といったように、つねに物事を対立した状況から考えるのが習慣になってしまいますが、実際にはその考え方では物事の根本的な解決を図ることはできません。
私たちの人生の旅は、私たちが自分自身で歩む旅なのです。問題の起こる原因もその解決も、ともに個人的な「こころの問題」にこそあるのです。あなたが病気になったのはあなたのこころの問題であり、あなたが交通事故で怪我をしたのも、やはりあなたのこころの問題なのです。
すべての問題はあなたに起因しているからこそ、その解決もまたあなたが自らの中で図ることが出来るのです。問題はあなたの外にあるのではなく、いつもあなたの中にあるのです。
ですからそれらの病気や怪我を癒すためには、あなた自身がそれをどのように受け止め、またどのようにこころの問題として解決して行くべきかを知ることが重要なのです。そしてそれはまた、交通事故の加害者の人にとっても同じ意味合いをもつ、重要な問題でもあるのです。
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自己処罰としての病
私たちは誰もが、例外なく幸せになりたいと思っているはずです。しかし現実はそれに反して、心の奥でそう思っていない人たちがいることを示しています。
アメリカ西海岸の中心都市のひとつであるサンフランシスコ。その街の名の語源にもなっている中世の聖者聖フランシスもその一人でした。
キリスト教に帰依した彼は、すべてを捨てて身一つで家を飛び出したのですが、それでも自分の肉体までは捨て去ることが出来ませんでした。そこで彼は、「イエスさえ磔になって苦しまれたのですから、私も同じように苦しませてください」と絶えず願っていたそうです。
実際に彼の身体には、聖痕と呼ばれる磔のときに出来る傷と同じような傷が顕われたそうです。
そうして聖フランシスは、生きている間じゅう肉体を痛めつけ続けたのでした。
それほどまでではないにしろ、私たちの中には罪の意識からくる自己処罰によって、自分の肉体に病を顕している人たちが多くいます。
その人たちは自らすすんで不幸を招きいれ、自分の身を病魔に引き渡して苦しむことで、自らの罪の贖いをしようとしている人たちです。
世間的に見れば罪びととも思われない人々が、自らを照らして自己審判しているのです。
子供に充分な愛情を注いでいない、とか。配偶者に嘘をついている、とか。年老いた母を一人で住まわせている、とか。社命に従って違法ではないが褒められない商取引に関わっている、等々。
自分を裁く材料は人それぞれです。ある人には罪だとは思われないようなことでも、その人が罪の意識を感じていれば自己処罰は起こりえます。そして裁きは必ず贖いを求めます。そうしてその贖いとなるのが病気である場合が多いのです。
キリスト教でいう『原罪』にはじまり、仏教の教派でも人間を罪深き者と考えるひとたちがいます。
そういった罪業の意識が心の底に巣くい、無意識に贖罪を求めることに繋がっているのかも知れません。
では、私たちはほんとうに罪深き存在なのでしょうか?
いいえ、それは違います。私たちは、罪を犯したことなど一度もない『美しい生命』です。
私たちの『ほんとうの生命』は、穢れることも傷つくこともない完全なる『絶対理念』の分け御霊なのです。
しかし、これまでの宗教や教育や社会的規範などが、私たちを「罪びと」に仕立てようとします。私たちは何より自らの生命の美しさを認め、罪深き生命であるという考えの誤りに気づかなくてはなりません。
自己処罰の結果として肉体に出現した病に苦しんでいる人たちは、自らが罪業に汚れていないほんらい美しい生命であることを知ったうえで、このような誤った自己審判から離れることが必要なのです。
もちろん「ほんらい罪なし」の観念を本当の意味で把持するためには、顕在意識下で理解しているだけでは不十分です。顕在意識のさらに奥、私たちの心を突き動かしている潜在意識に「ほんらい罪なし」の観念を植え付けなければなりません。
私たちの意識全体を100とした場合、そのうちの5〜10が表面の意識である顕在意識(現在意識とも表層意識ともいう)であるといわれています。食べたり飲んだり仕事をしたり勉強をしたりといった普段の生活のあれこれは、多くても全体の僅か一割の顕在意識の働きで行われているのです。
さて、残りの90〜95の意識は何かといいますと、それが潜在意識なのです。潜在意識はいつもは顕在意識の下にあって姿をあらわしていません。潜在意識とは私たちの心の奥底に潜んでいて私たちを内から突き動かしているものだからです。しかしその力は絶大です。
私たちは自分自身の行動や選択の動機について訊かれた時に、「ふと、そう思ったのです」と答えるときがあります。別段理由はないけれども、アイスクリームが食べたい気がした、とかいうこともあります。
この「ふと、そう思った」とか「そんな気がした」とかいう感覚の因となっているのが潜在意識の囁きです。
潜在意識は無意識のうちに私たちの行動や思考や判断に影響力を及ぼして、私たちの人生を左右しています。もちろん、潜在意識は基本的に私たちの欲することを達成させるために働いているのですが、潜在意識には独特の性質があって、ときにその性質がために働きの結果が裏目に出ることがあるのです。
潜在意識の特徴は大きく分けて4つあります。1.膨大なデータベースであるということ 2.24時間休みなく(眠っている間も)活動しているということ 3.物事の善悪や正誤を判断しないということ 4.イメージと現実の区別がつかないことです。
つまり、私たち自身の過去の体験(表面の意識では忘れてしまっている場合もあります)を潜在意識は憶えていて、その体験によって生み出された誤った感情(やがて信念となる)を基に、無意識のうちに(私たちが顕在意識下で気づかないうちに)私たちを苦境へと導いて行く可能性があるのです。
そのようなほんとうは望んでいない結果を受取らないためには、潜在意識が持っている誤った信念を打ち消しておかなければなりません。そのためには『潜在意識の浄化』が効果を発揮します。
それではどのようにしたら、潜在意識下に蓄積してしまった罪業の観念(誤った信念)を浄化することが出来るのでしょうか。
その方法のひとつは、善い言葉を繰り返し使うことです。普段から肯定的な表現を使う習慣をつけることが必要ですし、アファーメーションを実行することも効果があります。もうひとつはアルファー波が優勢な脳波状態(瞑想中など)のときに、善いイメージを積極的に描くことです。この時に「罪も穢れもなく美しいほんとうの生命」が自分の裡に鼓動しているというイメージを描くことが一番よいと思います。
認めたものが顕われるのがこの現象世界です。この『こころの法則』を利用しない手はありません。『ほんとうの生命』をこころの眼で視つめることが、どのよう場場合でも効果をもたらすのです。

もしも肯定的な言葉を積極的に使い、よいイメージを描くことを習慣としたにも拘らず、一向に病が改善しないとしたら、それは潜在意識が独自にブロックを掛けているために、せっかくのよい言葉やイメージが潜在意識へと浸透していかないのかも知れません。
そのようなときには、「催眠誘導療法【ヒプノセラピー】」が効果を発揮します。
通常ではアクセスしにくい潜在意識に、ダイレクトにコンタクトすることが可能だからです。詳しくは「催眠誘導療法」のページをご覧ください。また、ヒプノセラピーを受けたいと思われる方は、お気軽にメールなどでご相談ください。
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前世や過去世から持ち越している病
自己処罰とは少し違って、自分の前世やその前の過去世の記憶が原因となって、今世で病気に苦しんでいる人たちもいます。
私たちの生命は繰り返す生命です。ヒンドゥー教や仏教ではこれを『輪廻転生』といいます。
私たちは過去に何度もこの地上に肉体をもって降り立ち、あるときは男性となり、あるときは女性となり、たくさんの職業や貧富の上下を経験し、数々の転生であらゆる行いを体験しています。
幸せを感じて暮らしていたこともあるでしょうし、苦しみに打ちひしがれていたこともあるでしょう。
それら沢山の過去生の中のいくつかの生で、私たちは衝撃的な状況から生まれた強い負の感情や、人間関係やその他のことがもたらす問題が生んだ、拭い去れない負の感情などに襲われたことが、少なからずあるはずです。
その負の感情を生んだ出来事などがそれらの生で解決しきれていない場合、私たちはその感情や観念を『魂のトラウマ』として今生に持ち越してしまっていることがあるのです。
そしてそれらの持ち越してしまった『魂のトラウマ』は、あるとき引き金となる事象を契機として、ふたたびあなたの今生の人生に、病気や人間関係の問題などとして顔を出すのです。
ある30代の男性は、アラビア半島のイスラムの国に女性として生きていた過去世をもっていました。その過去世の女性は17歳のときに馬車に左脚を引かれ、その事故が原因で左脚が不自由となりました。それ以来その女性は不自由になった左脚を引きずって苦労の多い孤独な人生を送ったのでした。
この過去世をもつ男性は、17歳の頃から左脚に原因不明の痛みを覚えるようになりました。そしてどの専門医に診察を受けても、痛みの原因はわかりませんでした。
ある20代後半の女性は、東洋のある国で裕福な商家に長女として生まれていた過去世を思い出しました。寵愛されて育てられ彼女はやがて成人しましたが、その頃には相愛の男性がいました。しかし彼は僧侶であり、それは許されない恋でした。
二人の仲を知った彼女の父親は激怒し、寺院の責任者に詰め寄りました。その寺院は彼女の父親からの多額の寄付で成り立っているところでした。
彼女は幽閉され、恋人の僧侶は自ら命を絶ちました。その後彼女は父親の決めた男性と結婚し、愛のない後半生を送りました。
今生での彼女は、男性に対して極度に奥手でした。過去世からの魂の記憶が、恋愛そのものを拒んでいたのかも知れません。
このようにたくさんの人生の記憶を潜在意識は仕舞いこんでいます。また、一つひとつの細胞も、過去世のすべてを記憶しています。これを専門家たちは『セルメモリー』と呼んでいます。
セルメモリーはまるで時限爆弾のようなものです。『魂のトラウマ』が起こった年齢になると、眠っていた子が起きるようにその人生に影を落とし始めるからです。
二人はヒプノセラピー(催眠誘導療法)を受けました。
やがてヒプノセラピストの誘導で二人が深い催眠状態に達したとき、二人は魂の記憶を呼び起こすことに成功しました。二人は今生での問題の原因となっている、くだんの過去世を思い出したのでした。
そして完全にコントロールされた安全な状況下で、彼と彼女はそれぞれにもう一度過去世の出来事を再体験したのでした。
過去世のトラウマもエネルギーの一種です。そのトラウマを再体験することで、今生に影響を及ぼしていたエネルギーは解放されるのです。
ヒプノセラピーを受けた後、男性の原因不明の脚の痛みはしばらくして癒えました。
女性の恋愛恐怖症もその影をひそめました。
このように、私たちはいくつも体験してきた過去の生からの負の記憶を抱え込んでいる場合があります。
そのような場合は『ヒプノセラピー』を受けることをお勧めします。
<詳しくはこちらのページで>
自分自身でも記憶の海に沈めて気づけない幼少時のトラウマや過去世のトラウマが、今生の自分の人生に影響を及ぼしているかも知れません。過去から持ち越している負の遺産はいま清算すればいいのです。
病気も人生の問題も、この清算によって解決するかも知れません。
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隠されたメッセージ(病気の示唆するもの)
病はこころの反映として肉体に顕われることはすでにお話ししました。
一方で、私たちの患う病は私たちのこころの反映として肉体に顕われているのですから、その「病」が肉体へ顕われた原因を知れば、私たちの現在のこころの在りようを理解することが出来るはずです。
つまり、私たちに顕われる「病」の様子や顕われる部位などから、病を肉体に顕すに至ったこころの「バランスの崩れ」を知ることが出来るのです。そのことを知ることが、こころが「病」を創りだしているのだという考えを認める材料にもなるでしょう。
これから話を進める前に、ここでひとつお願いがあります。ここからの「病」と「心の在りよう」との相関関係を説明する部分は、単にそのメカニズムを知るという意味だけで読んでください。それは、あなたが自分に顕われた「病」を意識でギュッと掴まえて、この病気はこの心の顕われ、と握りしめることがないように注意して欲しいからです。そのように「病」を掴んでしまうと、あなたは「病」から解放されづらくなってしまいます。このメカニズムに注意してください。
さて、「病」があなたの肉体に顕われるその顕われ方は実に多種多様です。しかし、その顕われる特定の部位や現象から、こころの問題との関連付けをみることが出来ます。この対応関係については「チャクラ」の項でも説明していますので是非もう一度参考に読み返してみてください。

<チャクラのページへ>

ここでは心の問題と、「病」の顕われ方の解りやすい相関図だけを見て行きましょう。
「意」と書いて「こころ」と読ませます。このように「意」つまり「胃」はこころを表す臓器です。胃は臓器の中でも特に感情の影響が現れやすい臓器で、その証拠に私たちは何かに怒りを感じたとき、瞬時に胃に石ころのようなシコリを作り出します。また、こころが傷ついたときは胃も傷ついて、キリキリ痛んで血を流します。
もうひとつ、「皮膚」という字にも注目してください。皮膚の膚の字は胃が中に入っています。つまり皮膚は胃と深い関係にあると同時に、心の状態をも現しています。皮膚とは観察しにくい私たちの心(胃の状態も含め)の状態を、わざわざ視やすいように体表に映し出している部分でもあるということです。
あなたが心でブツブツ不平不満を思っていると、皮膚にはブツブツと発疹が出来ます。
こころに潤いがなければ、あなたの肌は乾燥してカサカサしているでしょう。
また、皮膚は人間と人間が最初に触れ合う器官ですから、人間関係をも如実に表しています。ギクシャクした人間関係に苦しんでいる人は、摩擦が多いこころの状態を炎症性の発疹などによって自分の皮膚に表現しているでしょう。
「がん」は虚血性疾患と並んで、現在日本人の死亡原因の上位を占める病気です。人間の肉体でがんに侵されない部位はないというくらい、身体のあらゆるところにがんは発生します。
「がん」は醜い肉の塊です。これはなにを表しているのでしょう。一概には言えませんが、多くの場合「がん」は憎しみを表しているようです。あなたが誰かに憎しみを抱き、かつそれを発散しきれずに内向して掴んで離さなかったとき、それは肉体に憎しみの塊となって顕われるのかも知れません。
また、がんが発生した臓器や部位についても考えてみましょう。「チャクラ」の対応表を参考にして、自己分析してみてください。あなたのこころの奥に巣くう、病の原因を見つめるきっかけになるかも知れません。
いずれにしても大切なのは、病はこころの反映(映し鏡)として肉体に顕われるということを理解することです。
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戦わずに、和解する(敵対する心を捨て、調和の世界に生きる)
私はガンと戦い抜きます、といった宣言を聞くことがあります。自分の肉体に顕われた病気の症状と、自分が戦うということは、とりもなおさず自分と自分の肉体に顕われた病気とを対立させている証拠です。
私たちはすべてを解決する秘訣が「和解」にあることを忘れてはなりません。
自分と自分の病気とを対立させないことはもちろん、自分と自分以外のものとを対立させず、すべてのものと調和すること、この「ほんらいの姿」に立ち戻ることこそが癒しへの近道なのです。
戦うとは対立を意味しており、これは和解の反対の極にあるものです。それはけっして病を消失させることに資するものではありません。病はあなたに和解を迫って出現しているともいえるのですから、むしろあなたは和解について思いを向けてみるべきなのです。。
また戦いには勝敗がつきまといます。勝敗は時の運というように、勝つこともあるかも知れませんが、負けることもありえます。勝てばよい(その局面だけでですが)かも知れませんが、負ければ一番大切なものを失う事態も起こりえます。
ひるがえって和解と調和には勝敗がありません。勝つこともありませんが、負けることもありません。和解と調和は勝敗を超えたところにあるもので、ほんらい自他一体の一元性の意識から発しているものですから、和解と調和は何よりもあなたにこころに『平安』をもたらしてくれます。
あなたがもしいま病気で苦しんでいるのなら、病に侵されている肉体は、その病も含めて「あなた自身」なのではありませんか。肉体はあなたのこころの反映であって、あなたに対立するものではありません。
自分の中に対立をおくことは、私たちにとっては魂の矛盾を抱えることになり、その矛盾がもたらすものは苦しみだけだといえるでしょう。
このように私たちを苦しめているだけのような病の、その性質と意味について考えたとき、病は私たちを単一性(一体感)へ導こうとして顕われているのだとは言えないでしょうか。こころの偏りを補正して、分離しているあなたの意識を統合しようと働いているのが『病』の役割なのです。
あなたは病魔と闘う誓いを掲げるのではなく、むしろ病気を通じて、『あらゆるものと和解すること』を模索するべきです。病は敵対するこころからも生まれます。あなたが自らの病から気づきを得て、自分がこころの闇に追いやっていたものを正当な場所へ引き戻し、すべてと和解し、すべてと調和するこころに立ち返ったとき、病はその存在理由を失っておのずから消えて行くことでしょう。
こころを鎮めて、自らの内なるものへ目を向けましょう。無限なるものと繋がっている自己へこころを向けましょう。自分の肉体の病魔に侵されている部位を思い浮かべ、その部位が調和の光に包まれている様子を、ゆったりとこころのスクリーンに映し出しましょう。
病はあなたを滅ぼそうとして働いているのではなく、あなたを生かそうとして働いているのです。
世の中には、細菌やウィルスに触れても発症する人としない人があります。ピロリ菌が胃の中に住みついていても、胃潰瘍を発症しない人もいます。煙草を一日に50本以上吸っている人でも、肺がんにならない人もいます。
それはどうした理由からでしょう。
その理由は簡単です。あなたのこころが細菌やウィルスと争わずに調和していたら、細菌やウィルスはあなたを侵すことが出来ないからです。
細菌と調和し、ウィルスと調和し、ピロリ菌と調和し、がん細胞と調和していれば、それらはあなたを侵すことが出来ないのです。
癒しと平安は、和解と調和から生まれてくることに気づいてください。
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不整脈・花粉症が癒える
私は20年程前から花粉症を発症しました。微熱があり咽喉が痛くて鼻水も出ましたから、最初は普通の風邪だと思って病院へ行ったのですが、そのときに『花粉症』と診断されたのです。まだその頃は花粉症はポピュラーな病名ではなかったので、「それはどんな病気ですか?」と医師に訊ねた覚えがあります。
それから5年ほどして、症状が急に重くなりました。眼は赤く充血して痒くて仕方ないし、鼻水は滝のように流れますし、喉の奥がはれて呼吸が苦しく夜眠るのも容易ではない状態になってしまったのです。
もちろん医師の診察を受けて化学的治療することを考えのですが、その頃はまだ薬の効果も極めて限定的で、飲んでも顕著には改善されないという考えが支配的でした。
同じ症状で病院に通院している複数の患者さんに治療の経過を聴いてみましたが、少しばかりよくなった気がする程度だとのことで、あなたのような重度の花粉症には効かないだろう、と忠告される始末だったのです。
そこでわたしは、どうせ薬を飲んでも大してよくなる見込みがないのなら、いっそのことその頃独学で学んで理解し始めていた『和解の治癒力』を引き出してみること、つまりアレルギー症状を引き起こしている『花粉』と和解し調和することを試してみようと考えたのです。
その1年半ほど前に、私は極度の不整脈を『暗示法』のようなビジュアライゼーションで改善させた経験もあったので、今度はそのビジュアライゼーションにアファメーションを新たに組み合わせて、『和解の治癒力』を引き出す自己流の『調和の治癒法』を試みてみようとしたのです。

□ その治癒法はこうです □

+まず締め付けのない服装で畳に大の字で寝転びます。

+ゆっくりと深呼吸を繰り返しながら、身体の緊張をほぐします。

+首や肩、腕や腰と上から順に、それぞれの部位を意識しながらリラックスしていく状態をイメージします。

+身体の凝りが解消し、隅々まで血流が充分戻ったと感じたらアファーメーションをはじめます。

「この自然界は無限なるものと一体で、完全に調和した世界ですから、一つひとつが他を支える働きをもって存在しており、不要なものはひとつとして存在していません。したがって対立するものなどはありません。花粉は花や樹木が子孫を増やすための働きを助けるための存在で、決して私を侵すものではありません。花粉と私とは無限なるものにおいて一体であり、互いにその存在を尊重し調和しています。私と花粉とは完全に調和しています。すべては大生命としての大調和の中にあり、それぞれが生命そのものだからです。私のこころが調和の波長に戻った今、花粉症は消えつつあります。ありがとうございます」

+唱えるアファメーションは正確でなくても構いません。重要な点は自分がすべてのものと和解し調和していることを言明することにあるからです。思いつくままにポジティブな言葉を唱えてもいいでしょう。

+しばらくアファメーションを続けながら、自分の身体の細胞一つひとつに新しい『和解と調和の生かす力』が満ち満ちていく様子をイメージします。

+細胞の一つひとつが『癒しの光』に包まれていく様子を思い浮かべてもいいでしょう。

+しっかりしたイメージが保持できたら、アファーメーションを止めてイメージだけにします。

+あとは気持ちのいい状態が続く限りイメージに包まれていてください。もちろん適当な時間で眼を開けて終了しても構いません。

+できれば最後にもう一度アファーメーションをしましょう。
「私の身体はいま、癒しの光に包まれていて安らかです。細胞に生かす力が満ち満ちているのは、調和がもたらした平安が生命そのものを輝かせているからです。私はひかりに満ちている生命そのものです。ありがとうございます」と3度唱えてから眼をゆっくり開きます。


この『調和の治癒法』を始めて1週間すると、花粉症の症状が軽くなってきたように感じ始めました。
気を強くした私は、思い切ってマスクをはずすことにしました。花粉と敵対せずに和解して調和しているのだから、花粉が私を侵すはずがないし、そもそも花粉は美しい花をたくさん増やして、私たちを楽しませてくれる働きのためにも存在しているのだから、ほんらい私を痛めつけることを好んでいないのだ、と考えられるようにもなっていました。
さて、マスクをはずした結果は最高にハッピーなものでした。まだ少し症状は残っていましたが、素晴らしい開放感が歓びを感じさせてくれました。
少し症状が残っているのは、感覚の記憶に過ぎないから、徐々に薄まってゆくと不思議に考えられました。かくして私の重度の花粉症は治癒したのです。
さて、現在の状況はどうかというと、あれから13年ほど経過していますが、花粉症は再発していません。毎年春になると2・3日微かに鼻や眼がむずむずする期間がありますが、それは私にとって季節感そのものです。平成17年は恐ろしく花粉の飛散量が多かったのですが、その年も例年と同じでした。
あるときコンタクトレンズが合わず眼科を受診したことがありました。瞼が少しただれていたようで「花粉症ですか?」と医師が訊いたので、「十数年前に直りました」と答えると、「花粉症は完治しませんよ」といわれました。
しかし、私の花粉症は完治したのです。現代医学では治らない病気でも、ほんらいはこころの顕われですから、治らないものなどほんらいないのです。
細胞は日々生まれ変わり、早いものは数分で新しい細胞に生まれ変わります。胃の粘膜細胞などは数秒で代謝しています。あなたの身体に顕われている病気という症状は、物質である肉体に出現している現象のように見えていますが、ほんとうはこころのあり様が具象化しているものです。ですから、こころの働きで病気という症状が現れたり消えたりするのです。
あなたは肉体でありながら、常にスピリチュアル(霊的)な存在でもあるのです。
キリスト教神秘主義者の、ピエール・ティラード・シャルダンはいっています。
「あなたは霊的体験をもつ人間ではありません。人間体験を持つ霊的存在なのです」
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感謝と笑い(まず父母に感謝することから)
感謝とは、与えられた恩恵に対しての報恩のこころです。
とかく私たちは自分だけで生きていると思ってしまいがちです。確かに自分で歩き、働き、食べてはいますが、私たちに必要不可欠な空気(酸素)ひとつをとってみても、自らが作り出したものではありません。空気も水も大地も、すべては大自然から与えられている恵みにほかならないのです。
三界を支配する『こころの法則』は、あなたのこころの状態をそのまま現象化する働きです。
あなたが「感謝のこころ」で生活していたら、あなたには感謝の生活が現象化します。いまを感謝するこころが、未来の感謝する環境を創りあげて行くからです。結果として、あなたは感謝せずにはいられない素晴らしい環境に身を置くことになるでしょう。それは感謝せずにはいられない環境を、いまのあなたの感謝のこころが引き寄せるからです。
「どうか私のこの病気が一日も早く治りますように」と病気の時には祈りたくなりますが、病気が治るように一所懸命祈ることは、とても敬虔なことのようで、じつはこころの法則に反した祈りかたです。
なぜなら、『こころの法則』の働きは善悪の判断を超えて、あなたが祈ったとおり『そのまま』に働くからです。まったくこの法則は正直に現実を創りあげるものなのです。
あなたが「私のこの病気が治りますように」とこころから祈れば、慈悲深いこころの法則は必ずあなたのその祈りを聞いてくれるでしょう。そして顕われるあなたが望んだ祈り通りの現実は、「この病気が治りますように」と祈っているあなたの現実です。
つまり結果としてあなたの病は癒えないのです。それはあなたが、病気を顕して苦しんでいて治りたいと祈っているあなた、という現実を引き寄せるような願いをしていたからです。
過去・現在・未来は『いまの一点』に同時に展開されているのです。その意味において、あなたは常に感謝のこころでいるべきなのです。
あなたはすでに「無限なるもの」によって、すべてを与えられている存在であることを忘れてはなりません。
あなたが「無限なるもの・絶対理念」を心から信頼していれば、あなたの病気はあなたが治りたいと思った瞬間にすでに治っていると思えるはずです。そして事実その瞬間に治ってもいるのです。
あるところに可愛い幼な子がありました。その子の父親はとても優しくてその子供を心から愛していました。ある時その幼な子はどうしても欲しいものが出来ました。それは幼な子に必要なものでしかもふさわしいものでした。幼な子は優しい父親にそれをお願いすることにしました。「お父さん、ぼくはとても欲しいものがあるの。どうかそれを探してきてください」と。
さて、幼な子がお父さんに欲しいものを探してくれるようにお願いしたとき、幼な子はお父さんが必ずそれを与えてくれることを信じて、お父さんの愛を信頼していたのではないでしょうか。
幼な子は、お父さんは気分屋だから気分次第で探して来てくれるかも知れないし、探してきてくれないかも知れない、と思ってはいません。ましてお父さんはケチだから、わざわざ探しに行ってくれないかも知れない、とも思ってはいないでしょう。彼は父親を信頼しており、父親は幼な子を愛しているからです。そして、だからこそこの幼な子には、必要なものがお父さんから与えられるのです。
私たちと『無限なるもの』との関係にしても、同じことです。いつでも、誰にでも平等にこのメカニズムは働いているからです。
あなたが病を癒して欲しいと思っているなら、無限なる絶対者に信頼を寄せて、心からその無限なる力を信じることです。
あなたを創造した無限なるものは、常にあなたにこころを寄せておられます。
イエス・キリストは言いました。「あなた方が天の父に祈るとき、すでに祈りが叶ったと思って祈りなさい」と。
あなたがこころの法則を正確に理解していれば、あなたは『無限なるもの』に対してこう祈るはずです。「すでに私の病気は、無限なるものの生かす力によって完全に治癒しています。ありがとうございます」と。
するとこころの法則は、あなたのこころのとおりに現象を顕す働きがあるのですから、すでに病気が治癒して、ありがとうございますと感謝しているこころの状態が、あなたの現実界に現象として顕われてくるわけです。
結果としてあなたの病気は治癒し、あなたは病気が治って喜ぶ(感謝する)ことになるでしょう。
まだ病気に苦しんでいる最中に、すでに病気は治癒しましたと祈ることは、自分に嘘をついているような気がするかも知れません。しかしそれは、あなたが大宇宙の真理を、スピリチュアルな仕組みをまだ充分理解していないからそう感じるだけなのです。
あらゆる事象の根本は実相界(無限なるもの・絶対理念)に在り、それが霊界に映し出され、現実界にも反映されるのです。
あなたはほんらい病などに冒されたこともない完全な生命なのですが、いまこの現象界では病に冒されて苦しんでいます。しかし、ほんらいの生命は病などに冒される不完全な生命ではない、と気づいた(認めた)時に、あなたの心のレンズは歪みのないより透明なものへと差し替えられました。
するといままで歪んだり曇ったりしていたレンズを通して投影されていたために、病に侵されることもあった現象の肉体の霊界での雛形は、すでに病なしの生命へと変化し始めます。そしてそれからこの現実界の物質の肉体にも、本来病無しと気付いた変化が現れ始めるのです。ここに少しの時間的経過が必要なのです。
しかし、実際にはあなたの肉体に顕われていた病は、『本来病なし』と気付いたとき(認めたとき)に存在力を失っています。病とは積極的なエネルギーではないのです。それは現象を映し出すレンズが歪んでいるために誤って映し出されている現象に過ぎないのです。私たちは歪んだレンズが為に顕われているこの現象の肉体の姿に左右されるべきではありません。本源の生命である霊的肉体をこそ信じることが大切です。その霊的肉体はすでに『本来病なし』と気付いたときに癒されているのですから、そのすでに癒されている霊的肉体を視ることが大切なのです。
ですから、すでに癒されているとして祈るのです。何故ならあなたが『本来病なし』の霊的肉体を認めたときに、認めたものが顕われる心の法則にしたがって、現象の肉体にも『本来病なし』の認識が反映されることは間違いないことだからです。
繰り返しを恐れずに書きますと、実相界においては、「善一元」の世界(善一元の世界とは、対立する悪もないのですから、本当は善さえもないのです。唯ただ、すべてが一体となった世界です。善をも思わず、悪をも思わずということは、善も悪もみなほんらい一体と知ることです。すべてはそのまま、あるがままなのです)が展開していますから、病気などは存在しません。しかしこの現象界は限られた次元の世界であり、相対で覚知する世界であるために一元性が失われています。失われた一元性のためにアンバランスとなった現象界のこころは、バランスを取り戻すためのバランサーとしての病気の働きを必要とします。それは実相界の本源的生命を映し出すレンズが、崩れた心のバランスによって歪んだり曇ったりして、正しく本源的生命の完全さを現象界に映し出さなくなることで起こります。これが現象としての病気が現れるメカニズムでした。
しかし、ほんとうのあなたは実相界に実在しているあなたです。
現象界はその内部にあなたのこころの反映として展開されている仮の世界に過ぎません。そして現象界は、あなたがこころで認めたものが実現するという『こころの法則』が支配する世界なのです。
重要なところは、現象界は反映であるということです。その実相界からの反映を映し出すためのレンズの役目を果たしているのが『こころ』なのです。
レンズである『こころ』がアンバランスになってしまうと、レンズは歪んだり曇ったりしてしまいます。そうすると実相界のそのままが投影されず、病などの現象が映し出されるのです。
あなたのこころがバランス(整っていれば)していれば、レンズはクリアーですから実相界がそのまま映し出されます。その世界は病のない美しい調和の世界であることしょう。病気の根本的な原因は、映写機に例えればレンズにあたる『こころ』にあるのです。
あなたが病から解放されたいと本当に願うなら、それには「ほんとうの自己とは、病などに侵されない永遠の生命である」という真実を認めることです。病気になることも死ぬこともない永遠の生命である『ほんとうのあなた』こそが実在のすべてなのですから、あなたはそれを認めてそのほんとうのあなたを信頼しさえすればいいのです。そうすれば、この現象世界の秩序となっている『こころの法則』によって、病のないあなたが顕われるのです。
この仕組みがわかっているから、永遠不滅の病むこともないほんとうの生命がすでに与えられていることに感謝するのです。
私たちは『ほんらい病むことのない生命』なのです。すでにそのものなのです。この事実に感謝しましょう。
すべての悦びはそこから生まれてくるのです。

私たちは例外なく『両親に愛されたい』と思っています。私たちはいつでも両親に自分という存在を認めてもらいたいのです。それは、私たちが両親に愛され認められるべき存在(生命)だからなのです。
私たちがシステムとして生命のバトンタッチをしていくのには意味があります。先祖があり両親があり、そしてその生命の繋がりから自分という存在が生まれてきているのにも意味があります。
それは正負の法則であり、因・縁・果の法則であり、カルマ(業)の法則です。そしてそれらを成立させるために輪廻転生のシステムが仕組まれているのです。
『絶対理念』はこの生命の継承の仕組みを、魂の進化(本源への回帰のスパイラル)のために創りだしたのです。
あらゆる問題の解決は、自分自身を尊ぶことから始まります。『自分』という生命の存在を尊ぶことが出来なかったら、それを産みだした生命の本源を尊ぶことが出来ませんし、また自分以外の生命を尊重することも出来ないでしょう。
では、自分自身を尊い生命だと認めるためには何が必要でしょうか。そうです、それは自分という生命が尊い生命の系譜に繋がっているという自覚です。その一番近くにある繋がりが両親なのです。
あなたは現象的には尊い生命である両親から生まれて来たのです。あなたはその生命の系譜を自ら選択してこの世に降り立ったのです。そしてあなたを産みだした両親を尊ぶことは、あなたという『ほんとうの生命』を生みだした『絶対理念』を尊ぶことと相似象なのです。
だからあなたはあなたの両親に感謝しなければなりません。あなたの両親を生んだ先祖に感謝しなければなりません。両親という尊い存在がなかったらあなたという尊い存在は生じなかったのですし、先祖という尊い存在がなかったら、あなたの両親も生じなかったからです。
私たちは生まれながらに尊い存在であり、この尊い生命を生みだした私たちの両親も当然尊い存在なのです。
私たちという尊い生命は、両親という尊い生命があってこそ存在しているのであり、両親という尊い生命も、先祖という尊い生命の系譜があってこそ存在しているのです。
尊きものは尊きものから生みだされるのであり、尊きものは尊き本源からの尊き系譜によって受け継がれてくるのです。ゆえに、私たちは両親に感謝するのですし、先祖に感謝するのです。
感謝とはすべてを肯定するこころの様なのです。

笑うことが免疫力を高めることは、近頃の生命科学の研究で明らかになってきているところです。
昔の人はそれを直観的に知っていたのでしょう、『笑う門には福来る』という諺があるとおりです。
笑うこと(笑顔)は調和を呼び、調和は悦びを生み、悦びは生命を明るく響かせます。
この現象界には類をもって集まるという『親和性の法則』が働いているのです。悦びに明るく響く生命には、やはり悦びに明るく響く生命が引き寄せられてくるのです。それは幸運であり好機でもあります。そしてそこには正のエネルギーが集まり来たって凝縮し、善きことを現実化するのです。
笑うことで体内の免疫活動が促進されるのは、その働きのひとつなのです。
ですから私たちは、輝くような笑いが自然にこぼれるように習慣化しなければなりません。毎朝鏡に向かい、自分の顔に微笑みかける練習をしてください。そうすれば心は和やかとなり、こころが和やかになれば和やかな言葉が自然に口を突いて出てくるものです。
和やかな言葉は周りの人たちを和やかな気持ちにさせ、和やかな気持ちが集まれば『平安』が醸成されるのです。
平安とは一元の世界であり、一元の世界とは調和の世界です。調和の世界とはすべてと和解している世界であり、与え与えられている世界であり、感謝し感謝されている世界です。
病気はあなたのこころを一元性へと向かわせるために顕われて来たのですから、あなたのこころが一元性である感謝に向かえば、自然に病は癒えて行きます。
なぜなら、あなたのこころが一元性に(調和と感謝に)振り向けば、病はその役割を果たし終わったことになるからです。役割を果たした病は存在する意味がなくなり、もはや消え去るよりないのです。
感謝はすべてを癒す妙薬であリ、笑いは平安をもたらすこころの響きなのです。
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こころというレンズを正す(物質も肉体も病もこころを通した展開)
現実界は現象の世界ですから仮の世界です。それはあるように見えて(顕われて)いるだけの世界であって、ほんらいは実在しない世界です。
ほんとうに「在る」世界は実相界であって、根源的には「絶対理念」だけが「在る」ものです。
この現実界は実相界の投影の世界です。それは「絶対」の世界である実相界からの光が、現象界に繋がるこころ(意識)というレンズを通って、4次元の時空間というスクリーンに映し出されている映画のようなものです。
私たちはどんなに臨場感があっても、映画やバーチャルの世界を現実とは捉えません。
それと同じように、私たちは4次元の時空間というスクリーンに映し出された映像世界を現実と捉えるべきではありません。
般若心経にあるとおり「色即是空」なのであり、『かたち』のあるものはそのままで『かたち』のないものなのです。
つかの間存在しているだけのものは、無いものと同じです。
例えばあなたが誰かから100万円を預かったとします。あなたの手元にはいま100万円の小切手があります。しかしその100万円の小切手はただ預かっただけのものですから、明日には取に来た人に渡すべき小切手です。さて、その100万円はあなたにとって「ほんとうに在るもの」ですか?明日無くなってしまうものは、本当にあるものではないのではありませんか?
ここに冷たいジュースを飲むための美しいガラスのコップ(現象の物質のコップ)があります。でも、汗で濡れていたあなたの手からそのコップは滑り落ち、床に当たって砕け散ってしまいました。もう美しいガラスのコップはありません。さて、そのガラスのコップは「ほんとうに在るもの」ですか?いつか無くなってしまうものは本当は無いものです。
ほんとうに在るものは、決して無くなったりしないものです。時間を限って在るものは、つかの間あるように見えているだけのもので、ほんとうは無いものと同じです。それらはある条件の下で、一定期間仮に存在しているだけのものなのです。
あなたはいま、病に苦しんでいるかも知れません。しかし、病もその病に苦しんでいる肉体も、永遠に存在しているものではありません。それは病と肉体がいずれ消滅してしまうことでも判ります。このことから病も肉体も一時在るように顕われているだけのもので、ほんらいの『実在』では無いといえます。
ほんとうに在るものはただひとつ、『絶対理念とそれに繋がるほんとうの自己』だけなのです。
いまあなたが眼にしているものはみな、『ほんとうの自己』が体験を通じて自分を識るために、こころ(意識)というレンズを通して展開している投影(映像)に過ぎないのです。
この現実界(現象世界)は、こころというレンズを通してすべての事象が顕われている、三次元の舞台芸術のような世界なのです。あらゆるものは心というレンズを通して投影されるのですから、レンズ(こころ)がとても重要なのがわかるでしょう。
それではもしも、そのレンズが歪んでいたらどうですか?もしも、そのレンズが曇っていたらどうですか?
現実界という一種の映像の基となっている実相世界は、ゆがみや曇りなどない絶対の世界なのに、それを投影するレンズ(こころ)が曇ったり歪んだりしていたら、投影される映像(現象)はぼやけたり歪んだりしてしまうのではないでしょうか。
私たちがこの現象世界の人生で出会うネガティブな事象は、実相世界の『一元性』を投影する私たちのレンズ(こころ)が歪んだり曇ったりしてしまっているのが原因です。
ほんらい絶対理念の分け御霊としてその裡に生み出された私たちが、そのほんらいの全き性質を離れて、自分自身が汚れ傷つく限りのある不完全な生命だと思い込んでしまうと、レンズ(こころ)は曇ってしまいます。病気や人生の諸問題が実在する、と認めてしまったら、レンズ(こころ)は歪んでしまいます。
私たちが何よりも、自らのこころの有り様を正さなければならないのは、歪んだり曇ったりしてしまっているこころというレンズを修正するすることが必要だからです。こころというレンズをほんらい在ったように歪みも曇りもない美しく整ったものにすれば、この現象界に展開するすべての事象を完全なものに変えることが出来るのです。
そうすれば、歪んだレンズによって映し出されていた『病』という誤った投影は消滅してしまうでしょう。
では、レンズを整えるにはどのようにしたらよいのでしょう。それには潜在意識を浄化することが欠かせません。瞑想やアファメーションを実践することが潜在意識の浄化には有効なのですが、その実践に障害があったり(やろうと思うのに実践できない)、その効果が限定的だったりすることがあります。
その場合は『ヒプノセラピー(催眠誘導療法)』を受けられることをお勧めします。
『ヒプノセラピー』は普段表面の意識に邪魔されて直接接触しにくい潜在意識にダイレクトにコンタクトすることが出来るので、効果的に潜在意識を浄化することが出来ます。そのために幼児期のトラウマや、前世や過去世のトラウマを解消し、同時にネガティブな思念(観念)の蓄積をニュートラルに引き戻すのです。
そして催眠時の暗示によって善いビジョンを潜在意識に植えつければ、あなたの運命は好転の展開に転回して行くでしょう。そうすれば、苦しんでいる病気やそのほかの人生の諸問題を解決することができます。
是非この機会に『ヒプノセラピー』を試されることをお勧めします。
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生死を越えて(死が終局ではない、繰り返される生命)
いまあなたが病に苦しんでいるとしたら、『死』という現実について考えることもあるかも知れません。
多くの人は『死』を恐れています。それは、『死』がすべての終焉に他ならないと考えているからです。
しかし私たちの地上の生命は繰り返す生命だと前述しました。私たちは何度もこの地上に肉体をもって生まれ、そして死に、また生まれてくる生命なのです。
物事の終わりとしての『死』などというものは、ほんらい存在しません。私たちが眼にする『死』とは、フェーズの移行であり、霊魂が不必要となった肉体から抜け出し、別の次元に移る現象に過ぎません。それは過程であって、結末ではないのです。
私たちのこの地上の現実界での命日は、霊界においては誕生日となるのです。
今生で家族や仲間として過ごしたかけがいのない人たちとも、肉体の死をもって永遠に別れるのではありません。
私たちは『魂のグループ』を形成して輪廻転生を繰り返し、この地上においてと同じように、霊界においても家族であり仲間であるのです。
あるときは兄弟となり、あるときは夫婦となり、友人となり、またあるときは敵同士となりながらこの地上での体験を繰り返すのです。そして霊界においてはいつでも『魂のグループ』ですから、もっとも近い存在として関係を持ち続けるのです。
死を恐れることはありません。私たちは生死を越えて生きつづけ、大いなる自己として、無限なるものに同化して行く旅を重ねる存在なのです。
『死』は終わりを意味するものではありません。私たちにとって、『死』はひとつのプロセスに過ぎないのですから。
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掴んでいたものを放したとき(わだかまりを捨てる、捨ててこそ得られるもの)
私たちは何かを掴むために手を持っています。
しかし、いま掴んでいるものを手放さなければ、新しい何かを掴むことは出来ません。
あなたがいま、『病気』というものをこころの手で掴んでいるとしたら、あなたが望む『健康』を手にするためには、いま掴んでいる『病気』を手放さなければなりません。
この現象世界は、『認めたものが顕われる』という法則に支配されている領域なのです。
あなたが『病気はある』と思って病気の存在を認めていたら、病気はあなたの前から姿を消すことはないでしょう。
物質はほんらい無く、肉体もほんらい無く、そして病気もほんらい無いのです。
実在するものは、ただ『完全なる生命』のみです。それだけが『在りて在るもの』であり、存在のすべてなのです。
病はあなたのこころが創りだした『無明(迷い)』にほかなりません。ほんらい無い『病』をあると思っている心の迷いが、あなたに『病』を出現させている力となっていることにどうか気付いてください。
ほんとうのあなたは、『不生不滅不垢不浄不増不減』と般若心経にあるように、生まれたことも無く、死んだことも無く、汚れたことも無く、浄まることも無く、増えたことも減ったことも無く、そして病にかかったことも無い、『絶対の生命』なのですから。
瞑想をしてこころを落ち着けて、あなたのほんとうの姿であるこの絶対の生命の輝きをこころの眼で視つめてください。
そして、あなたの生命を生み育んだ父母と先祖に感謝し、いまある『生命』に感謝の言葉を贈りましょう。
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□ 今日から「瞑想・メディテーション」と「アファーメーション」をはじめてください □
□ あなたにできる、多くの人のために役立つことを何かひとつはじめてください □
□ いつでも「笑顔」と「思いやりのある言葉」と「善き面を見つけて褒める」ことを忘れないでください □


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