. | ◇ ほんとうの自分とは ■ 生命(いのち)ということ ■ この世界は虚構の世界 ■ 非物質の世界を説くひとたち ■ 現象界がつくられた理由 ■あなたは不滅の生命 ■ 物質主義の迷妄 ■ ほんとうの幸福 ■ それはすでにあなたの手に ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ◆ 生命(いのち)ということ ◆ 「ほんとうの自分とは、何か」 あなたはこのことについて、じっくりと考えたことがありますか? こう問われて「ある」と答える人はごく少数です。大抵のひとは、いままでの経験からただ漠然と自分というものを捉えているだけで、その本質についてじっくりと考えてみたことはないと答えます。あなたもそう答えますか? 偉そうに書いていますが、実は私もそうでした。何のために人生があるのだろうとか、人はなぜ働かなくてはならないのだろうとか、幸せとはなんだろうとかは考えましたが、ほんとうの自分とは何か、とはついぞ考えたことがありませんでした。 ここでは哲学の話しをするつもりはありません。私も哲学は門外漢ですし、なにより学問として論じるのではなく、それ、そのものについて直接触れたいからです。 先程の『ほんとうの自分とは、何か』という質問に答えて、ある人はこの肉体の自分がそれだ、というでしょう。ある人は意識(こころ)が自分だ、と主張するかも知れません。脳の働きが自分だという人もあるでしょうし、またある人は物質ではなく脳の働きでもなく、霊的実在こそが自分だと胸を張るようにいうかも知れません。 あなたはどう思いますか?ここで少し考えていってみてください。 私が考えるのに、ほんとうの自分とは、あなたの、そして私たちの生命(いのち)の働きそのものではないかと思っています。 私たちははこのままで素晴らしい、かけがえのない存在なのだということです。なぜなら、それは私たちは無限なるものの一部だからです。しかし、無限なるものもまた、私たちという一部がなくては、無限なるものとして『在る』ことは出来ません。 つまり、私たちは無限なるもののひとつの働きとして存在し、無限なるものは私たちという存在があればこそ、無限なるものとして実在しているのです。私たちは一人ひとりが宇宙の一部であり、また私たち一人ひとりが宇宙なのです。 ほんとうの自分とは、縦・横・厚みの3Dの肉体の人間ではありません。ほんとうの自分とは、無限に拡がる「絶対の生命」そのものなのです。 少し難しい表現で言えば、私たちは「絶対理念の働き」そのものなのです。 宇宙を貫く真理が、聖なるものが、無限なるものが、私たちを通していまここで活動しているのです。 はじめのない初めから、存在していたのは「絶対理念」だけでした。それが存在のすべてであり、その存在はあらゆるものの「はじまり」でした。 それは「宇宙生命」とも、「大生命」とも、「根源的生命」とも呼ばれてきました。 それは宗教的には「ブラフマン」とも、「天之御中主神」とも、「ヤーウェ」(エホバ)とも、「法」(ダルマ)とも呼ばれてきました。 絶対空間の絶対時間に存在している「絶対理念」は、無限ですから限定することができません。空間的にも時間的にも限りがないものですから、ひとつの容(かたち)というもがないのです。 無限に拡がる空間を想像してみてください。あなたはその無限の空間のなかに図形を描くことができますか? 無限の中に置いた点は、いつでも無限の中心にあるのです。ですから、無限の中になにかの図形を描くことはできません。また、だから「絶対理念」は、無限の中において、どんな容としてでも存在することができるのです。 また「絶対理念」は一元であり一如ですから、この現象世界のあそこにも在りここにも在り、あそことここに同時にあり、また無いところにもあるという存在であり、偏在するものだといえるのです。 あらゆるものの中にあり、あらゆるものであり、在るものを在らしめているもの、それが「絶対理念」であり、それはいつでも私たちを通して働いているのです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ◆ この世界は虚構の世界 ◆ 私達は、いま生きているこの現実界(現象世界)がすべてだと、つい錯覚してしまいがちです。 しかし、この現実界(現象世界)は仮の世界であって、実はほんとうの世界ではないのです。 こう唐突に書くと、反射的に拒否反応が返ってきそうですが、もう少しこの話に耳を傾けてください。 ほんとうにある世界とは、実在する世界のことです。実在とは決してなくならないもののことを指します。 では、私たちがいま生きているこの世界のものは、実在するものでしょうか。 いいえ、例えばお皿一枚にしても、実在しているとはいえません。なぜなら、お皿はずぅっと存在するものではなくて、やがて壊れてなくなってしまう(形を変える)からです。 また私たち人間の肉体にしてみても、お皿と同じことです。100年も生きていればとても長生きであり、大抵は7・80年すれば形を失ってただの土に還ってしまいます。これは人間の肉体が、つかの間ある(存在する)ように見えていても、やがては消えうせてなくなってしまうものであることを示しています。在りつづけずに生滅してしまうものは、これは実在するものとはいえません。 それはつかの間在るように見えているだけのものであり、その性質こそが「仮に顕われている」だけのものだということを物語っているのです。そしてそのように見てみると、この世のあらゆるものはすべてが一期生滅の存在であり、実在するものなどないことに気づかれるでしょう。 これは般若心経にいう、「無色無受想行識無眼耳鼻舌身意無色声香味触法」です。物質も意識の働きも感覚器官の働きも感覚に捉えているものも、すべてはほんらいないものなのです。 しかし、ではなぜこの現象世界がたとえ仮にでも存在するのでしょうか? 実はそのことこそが、実在の世界があることを証明しているのです。つまり、現象世界が確かに存在しているという事実は、その現象世界を反映させている実体があるということになるからです。その実体こそが実在の世界なのです。仏教ではこれを実相と呼び、イエスは天の王国と呼びました。 私達はまるで、まどろみに落ちて夢を観ている間、ほんとうの世界からこの仮の世界である現象世界へやってきたようなものです。そして、この現象世界の中に、この現実界を幻とは知らずに存在し、さも現実のように創りあげられた世界の出来事を、現実だと錯覚して体験しているのです。 映画を観るために、私たちは映画館へ足を運びます。映画館には映写機などの機材がそろえられていて、現実ではない虚構の世界のことを、まるで現実のように私たちの目の前に展開してくれます。この現象世界もまったくその映画の世界と同じです。この現実界は、縦・横・厚みと時間という限られたスクリーンに映し出されている、ただの虚構の世界なのです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ◆ 非物質の世界を解くひとたち ◆ ここでは例えばいわゆる霊的体験について語る人たちについて少しみてみましょう。 アメリカの大学教授で、生まれ変わりを研究している人がいます。彼の名前はイアン・スティーヴンソンといい、すでに数千ケースの生まれ変わりの事例を集めたといいます。その中の代表的ないくつかの事例について「前世を記憶する子供たち」という本に詳しく書かれています。彼のチームの調査ルールは厳密そのもので、実に科学的です。スティーヴンソンの著書を読むと、生まれ変わりが実在することを信ぜざるを得なくなります。 また、18世紀にエマニュエル・スウェーデンボルグという人がスウェーデンにいました。彼は有名な科学者でしたが、後に「私は霊界を見てきた」などの霊的著作を多数残しました。彼は幽体離脱(脱魂)して霊幽界を彷徨っていたようです。彼の著書には霊界の様子が詳細に書かれています。 幽体離脱といえば、アメリカのモンロー研究所を創立した、ロバート・A・モンローがいます。彼はつい最近まで存命でした。ラジオ業界で巨万の富を作り、その資金で設立されたモンロー研究所では、「OBE」体外離脱の研究を今でも行っています。その研究の中心は、「ヘミシング理論」という脳を音波で刺激する方法を用いて体外離脱を誘発するものですが、モンロー研究所へ行けば誰でも体験することができるそうです。体外離脱については、「究極の旅」などの彼の著作に詳しく述べられています。 エリザベス・キューブラー・ロス博士は、死の臨床について研究した代表的な人物です。彼女は18もの博士号を持つ女傑でしたが、小児がんなどの余命いくばくもない子供たちのターミナルケアを通じて死後の世界の実在を研究し、「死後の真実」など多数の著作を残しました。。 エドガー・ケーシーは、リーディングという方法で霊的世界を証明しました。医学的な知識のまったくないケーシーは、一種のトランス状態に入ると、病気で苦しんでいる人の治療法について語り始める(リーディング)のですが、そのリーディングで語られた治療法を実践すると、とたんに病気が治ってしまうのです。彼は霊界や輪廻転生についてもリーディングしており、その資料は現在彼の業績を継承する財団が保管しています。 彼らは一様に非物質の世界についてその存在を肯定しています。それどころか、非物質の世界の方がほんらいの世界であるとも言うのです。 もしもこの現実界だけがすべてであるのなら、これらのことを語る人たちの著作はただの妄想なのでしょうか。私にはそうは思えません。 また、このような物質でない世界の存在については、最先端の物理学も探究しています。 世界的に有名な物理学者であるデビット・ボームは、明在系(物質界)と暗在系(非物質界)として説明しようと試みました。彼によれば、暗在系が実在であり、明在系はその反映として仮に顕われているものだというのです。つまり暗在系の働きの現象として、この物質界が存在しているというのです。 デビッド・ボームの主張は、この現象世界のバックボーンには、非物質の実在世界があるということなのです。 ここで間違えてはいけないのは、幽界も霊界もこの物質世界と同じ現象界ですから、やはり物質世界と同じように仮の世界であり、幻想の世界であって、虚構の世界だということです。 つまり暗在系とは『絶対理念の働き』であり、明在系とは物質界・幽界・霊界を含めた『現象世界』をいうのです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ◆ 現象界が作られた理由 ◆ ほんとうの世界は「絶対の世界」「一元の世界」そのものなので、観るものと観られるものとの区別がありません。存在するものと、その存在を認識するものとの分離がないからです。 ほんらいは分離した感覚など実在しませんから、存在を自分と自分でないものに分けることは本質的にはできないのです。 そうすると、自分と対立する自分以外のものを無理やり創りださなければ、分離した自分を体験することができないことになります。つまり自分という「個」は、他人という対立した「個」がなければ存在できないのです。 すべてが甘いものだけだったら、甘いというものは無いことになります。ずうっと昼間が続いていたら、昼間という言葉も生まれていないでしょう。暗い夜があるからこそ、はじめて明るい昼も存在することができる理屈です。 そこで「絶対理念」は、自らの裡に自らを体験する仮の世界を創りました。その仮の世界は相対の世界で、甘いものと辛いものとがあります。観るものと観られるものを区別することができます。あなたと私を区別することもできるし、善と悪を別々に認識することもできる世界です。そして、この世界こそが「現象世界」であり、私たちがいま居る「現実界」なのです。 この世界は、縦・横・厚みと時間に限られた世界で、だからこそ二元的な体験ができる世界なのです。 ■ このページのトップへ ■ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ◆ あなたは不滅の生命 ◆ ほんとうの世界である「実相世界」と、仮の世界である「現象世界」があるように、私たちにも実相世界の生命と、現象世界の生命とがあります。実相世界の生命は実在の生命ですが、現象世界の生命は実相世界の生命の影のような性質の生命です。 現象世界の生命のひとつの「かたち」である現実界の肉体のあなたは、いずれ死を迎えます。それは現実界とは一期生滅を理(ことわり)とする世界だからです。そしてこの現実界の死は、誰にも平等に訪れる転換のときです。 さて、私たちの物質の肉体を構成している素は、原子です。原子は中心の原子核と、その周りを旋回する電子とで成り立っています。ほかにもクウォークなどの素粒子がありますが、ここでは「原子」を単位として捉えて考えてみましょう。 肉体を構成していた素の物質は、原子でした。さて、私たちが肉体の死を迎えたとき、その物質の肉体を構成していた素の原子はどうなるのでしょうか。肉体が死を迎えたのですから、その肉体を構成していた原子も同じように死を迎えることになりそうなのですが、果たして実際はどうなのでしょう。 そうです。みなさんもご存知のように、肉体が死んでも肉体を構成していた原子は活動を停めません。不思議なことに、呼吸も心拍も脳の反応まで止まったときでも、原子の中では原子核の周りを電子が元気よく旋回しています。肉体は死を迎えても、物質(原子)の働きは停止せず活動し続けているのです。つまり、人間は死んでも、肉体はほんらいの物理的な面(原子の世界)では死を迎えてはいないのです。 なのに私たち人間は死にました。もちろん肉体も死んでしまっています。心臓も肺も脳も働いていません。これはどうしたことでしょう。 もう、あなたはお解かりですね。そうです。それは、生命がもはやいなくなってしまったからです。私たち人間を人間たらしめているのは生命ですから、その生命が肉体を抜け出てしまったら、肉体を肉体たらしめていた本体がなくなってしまったことになります。そうすると肉体の人間はもはや存在できなくなり、心臓も肺も脳も、たとえそれを構成している原子は活動していても、臓器としては活動できなくなってしまったのです。ですから、やがて肉体は瓦解してしまうのです。そしてその過程の中で、肉体を構成していた素の原子は結びつき方を変えて別の物質となり、その後も活動を続けていて行くでしょう。 私たちの生命が、物質の肉体ではないことは、ほかの面でも明らかです。たとえば、左腕のないひとがいたとしましょう。その人は、左腕がない分だけ、生命が少ないでしょうか。いいえ、そうではありません。 たとえ肉体的に不完全でも、生命としてはやはり完全です。左腕がない分生命が足りないわけでもありません。 肉体的には足りなくても、生命的には充足しているのです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ◆ 物質主義の迷妄 ◆ 私たちは、物質主義の唯物論に慣らされて、肉体人間が自分であると勘違いをしています。 このように肉体人間が自分だと考えていると、肉体が死んだら、自分もなくなると考えます。そうすると、どうせ死んでなくなるのなら、生きているうちに出来るだけ楽しい思いをしようとか、贅沢三昧の生活をしようとか考えてしまうものです。 楽しい生活が善くないわけではありません。贅沢な生活が、善くないわけでもありません。しかし、そのためにあなたはなにを犠牲にするのですか?信頼、約束、友情、良心、人を労わるこころ、人に譲るこころ、人と分かち合うこころなどを犠牲にしてしまうのではありませんか? 物質がすべてだと考えていると、生命に限りがあることと、物質には限りがあることとが強迫観念となります。そうすると、私たちにはたちまち争うこころが生まれます。 このままだとあのひとに先を越される。だからなにか出し抜く策を考えなければと、こころは波立ちます。早く行って先に取らなければ、取り分が少なくなってしまうと、こころは焦ります。 物質が基本の価値になると、問題は所有している量や、支配している量だと勘違いしてしまいます。つまり、経済的な力が、何よりも優先されてしまうのです。 世の中には、「勝ち組」「負け組み」ということばが流行っているようです。もちろん「勝ち組」とは、物質的に、経済的に成功した人を指しているようです。高価な宝石や、豪華な邸宅や、たくさんの預金を所有していたら、勝ちです。自分だけが豊かになれば、それでいいのです。 しかし、それは人間だけに通用するルールです。あなたがそれらを所有していることを、人間の作った法律は認めてくれるでしょうが、それは人間が勝手に創ったただの約束事にしか過ぎません。それはごく狭い見識の成せる技であって、ほんとうは「それら」は誰のものでもありません。この地球に生きているのは人間だけではないし、この宇宙に存在しているのは、地球だけではないからです。 あるテレビ番組で、ある企業の経営者が、アルバイトや臨時の仕事をしている人を揶揄していました。その経営者は、自分の企業が、そういった安い賃金(不平等な雇用条件)で働いてくれる人の犠牲があって、しかもその少ない賃金のひとがそのお金を使ってくれるから、自分の企業が利益を出せていることを忘れています。自分の能力で利益が上がっていると、錯覚しているのです。確かに経営力があるように傍目には見えるのかも知れません。しかし、ふたを開けてみれば、ひとときの仇花にしか過ぎません。 もちろん、高い理想と豊かな感性を備え、ともに栄えることを模索している、優れた経営者もたくさんいることでしょう。もちろん物質的に豊かになることが、悪いことでもありません。むしろ、私たちは、物質的にも豊かになるべきなのです。 私たちは、あらゆる善きものを豊富に使って、楽しく意義ある暮らしをする本質的な権利があります。 しかし、スピリチュアル(霊的)な面をないがしろにしては、本当の豊かさ、本当の幸せは見えてきません。 私たち自身が、物質である肉体人間を自分だと錯覚している間は、「ほんとう」に価値あるものをより分けるこころの眼は濁ったままでしょう。 ■ このページのトップへ ■ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ◆ ほんとうの幸福 ◆ 私たちには、自由を求める根源的な欲求があります。 たとえば南の島が好きな人は、そのブーゲンビリヤが咲き乱れる南の島に、好きなときに行けて、好きなだけ滞在できたらどんなにか幸せだろうと考えるでしょう。 カメラを集めるのが趣味の人は、欲しいカメラが全部手に入ればいいなぁと考えるでしょう。 それらの欲求の本質を考えると、それはお金が欲しかったり、ものが欲しかったり、時間が欲しかったりということではないことが見えてきます。そういった欲求はむしろ二義的なものであって、第一義的な欲求の本質とは、それらを達成できる「自由」を獲得したい欲求なのです。 自由に南の島へ行ったり、自由に過ごしたり、自由にカメラを集められたりといったように、本質的には「自由」を求めているのに違いないのです。 それではなぜ、私たちは制約を疎み、自在性を好むのでしょうか。 それには、私たちの「生命」の本質が関係しています。 私たちには、愛で満たされたいという根源的な欲求があります。 誰でも自分の両親から、あふれる程の愛を受けたいと願うことでしょう。誰もが自分の恋人や配偶者を、こころから愛したいと思っているでしょう。子供がいるひとは子供に対してもそう感じているでしょうし、ペットや植物に対しても感じているひともいるでしょう。 また、目の前に困っている人がいたら、出来ることなら手助けしてあげたいと誰でも思うものです。 悲しんでいる人を見れば、私たちは悲しい気持ちになりますし、喜んでいる人を見れば、こちらまでウキウキしてくるものです。 あなたは誰かの必要な人になりたいのです。あなたは誰かに自分を求めて欲しいのです。あなたは誰かの役に立ちたいのです。あなたは誰かに喜んでもらいたいのです。それらはみな、あなたが自分を愛で満たしたいという本能的なこころの働きから起こる感情です。 自分が愛で満たされたいために、あなたはひとに愛を与えたいと思うのです。 だれもが、愛を最も近くに感じたいのです。誰もが愛を与え、愛を受け入れ、あふれるばかりの愛で満たされたいのです。 なぜ、私たちはこんなにも愛を求め、愛を与えたがるのでしょうか。 それには、私たちの「生命」の本質が関係しています。 私たちはみな、自分に不足しているものを欲しがるのだと、考えていませんか? お金が足りないから、お金が欲しい。時間が足りないから、時間が欲しい。自由が足りないから、自由が欲しい。愛が足りないから、愛が欲しいと感じるのだと、あなたは考えていませんか。 ではその前になぜ、私たちはそれが足りないと思うのかを考えてみましょう。なぜ、私たちはそれが不足していると感じるのでしょうか。 物質的に不足しているのなら、まだその感覚はわかります。でも、物理的に計れない自由を足りないと感じたり、愛を足りないと感じたりするのは、どうしてなのでしょう。 私は先に、それは私たちの「生命」の本質に関係しているのだと、書きました。そうです、その感覚は私たちの「生命」の本質が湧き上がらせるものであり、「生命」の本質が発している信号だったのです。 私たちの「生命」は、ほんらい「自由」なものなのです。私たちの「生命」は、ほんらい「愛」そのものなのです。 だからこそ、私たちは「自由」と「愛」を本質的に求めるのです。 ほんとうの私たちの「生命」が、「絶対の自由」と「絶対の愛」に満たされているからこそ、私たちは「自由」と「愛」を求めて止まないのです。 足りないから、それを欲しているのではありません。ほんとうはそれらで満たされているのが本質だから、私たちはそれを求めるのです。 あなたが愛を与えたいと願うのは、あなたがほんらい愛で満たされている存在だからです。ほんとうは満たされていることを、そのことをあなたは本能的に識っているからこそ、あなたは与えたいと思うのです。 「絶対の自由」と「絶対の愛」、これこそが私たちのほんとうの「生命」の本質です。 だからこそ、私たちは「自由」と「愛」を求め、それらを手に入れたいと心から望むのです。 私たちのほんとう幸せとは、私たちがほんらい「自由」と「愛」で満たされている存在であることを、その真実を識ることだったのです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ◆ それはすでにあなたの手に ◆ 私たちの「生命」の本質が、「自由」と「愛」であることがわかりました。 それでは、私たちはそれらをどのようにして「自らのもの」とすればよいのでしょうか。 メーテルリンクの童話に「青い鳥」という物語があります。青い鳥を探して、兄妹がさまよい歩くのですが、結局その青い鳥は、自分たちの近くにあった、というお話だったと思います。 仏典の法華経にも、同じような話しがあります。 ある時、ある放蕩息子が自由を求めてふらりと家を出て行きました。資産家の賢明な父は、息子の先行きを心配して息子が家出する前に、こっそり息子の着物の襟元に「宝珠」を縫いこんでおきます。困ったときにはいつでもそれを使って必要なものを手に入れることが出来るようにとの優しい親心からでした。 さて、放蕩息子は家を出たものの、案の定なにをやってもうまく行かず、結局飲まず食わずの乞食のような境遇になり果ててしまいます。そして自分のそんな境遇を哀れみ、さめざめと涙を流したのでした。 しかし、そのときに至っても、放蕩息子は襟元に縫いこまれた「宝珠」のことに気がつきません。襟元にある「宝珠」に気がつけば、何不自由ない暮らしが出来るものを、一向にその「宝珠」に気がつかない。持っているのに持っていることに気がつかなければ、それは持っていないことと同じことだというお話しです。 もちろんこの放蕩息子が私たち衆生であることはお分かりでしょう。 お釈迦様はあるとき弟子に、「あなたはいつから仏になったのですか」と聞かれて、「あなたが気の遠くなるほど(五百塵点劫)前から仏であった」という意味のことを答えました。尼連ぜ川のほとりで座禅し、悟りをひらいて仏となったのはほんとうの私ではない、というのです。 イエス・キリストもまた、私はアブラハム(物質人間)の前から存在していたといいました。 私たちは「それ」をすでに持っているのです。 しかし、「青い鳥」を捜し求める兄妹のように、襟元に縫いこまれた「宝珠」に気がつかない乞食のように、私たちは「それ」をもっていることに気がついていないだけなのです。 私たちは修行して、その結果いつか悟って仏になるのではありません。お釈迦様が仰ったように、私たちは生まれる前からの「仏」なのです。イエスの言うように、物質人間の生まれる前から私は在ったのです。 ですから私たちは、「自由」と「愛」を自分以外のどこかに求めてはなりません。求めるものは、求めるものであり、決して手にすることの出来ないものです。 私たちは「自由」と「愛」を、自らの中に発見すればよいのです。それは、すでにあなたの中にあるのです。それを識り、そのことをこころから認めれば、「自由」と「愛」はあなたに顕われることでしょう。 なぜなら、あなたは「絶対の自由」であり、「絶対の愛」である、「絶対理念」そのものだからです。 必要以上のお金を求めても、多くの物質的な何かを求めても、ほんとうのあなたの満足は得られるものはありません。しかし、ほんとうの「自由」とほんとうの「愛」を手にすることが出来れば、それらすべてを手にしたことより遥かに素晴らしいことでしょう。 どうか「ほんとうへの扉」をひらいて、「ほんとうの自分」に目覚めて、「絶対の自由」と「絶対の愛」とを自らのものとしてください。 あなたはすでに「それ」を持っているのですから。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ □ 今日から「瞑想・メディテーション」と「アファーメーション」をはじめましょう □ □ あなたにできる、多くの人のために役立つことを何かひとつはじめましょう □ □ いつでも「笑顔」と「思いやりのある言葉」と「善き面を見つけて褒める」ことを忘れないでください □ ■ このページのトップへ ■ ■ ほんとうへの扉トップ ■ このウェブサイトについて ■ はじめに ■ 新着情報・更新履歴 ■ ほんとうの自分とは ■ 魂の構造宇宙の構造 ■ 運命を改善する ■ 経済問題の解決 ■ 現実界を生きる ■ こころが病をつくる ■ ほんとうへの旅 ■ 人生の諸問題に対するQ&A ■ 催眠療法(ヒプノセラピー)トップ ■ メディテーション ■アファメーション ■ チャクラ ■パワーストーン ■ コミニュケーション&フォーラム |
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