< ほ ん と う へ の 「ひとりごと」 >
  ◇ ほんとうへの「ひとりごと」 Vol.1 〜No,0023             


-Vol.1-  Vol.2 No.0024〜


◇ 「ブログ」というほどのものでなく、「ほぼ日記」ほどでもなく、ただつれずれなるままに、心象風景や感じたことなどを、気軽に書き連ねてみたいと思います ◇


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12月31日(日)No,0023
一年が過ぎるのが、とても早く感じられる年齢になりました。
子供のころ、おばあさんが言っていた「一年はあっという間だねぇ」という言葉がいまはとても身に染みます。
さて、あなたにとって今年一年はどんな年でしたか?
世の中は色々なことが次々に起こって、瞬く間に話題が移っていきますが、あなた自身やあなたの周りはどうですか?

ところで、人生は結果が重要なのではなく、過程が大切なのだと私自身は思います。なぜなら、最終結果(結末)は始めから決まっているからです。
といっても、運命が決まっているということではありません。
私たちは誰でも、その終着地とそこに行き着くことが約束されている旅に出ているのだという意味です。
何かを遣り遂げたとき、その道程を振り返ってみれば、失敗などはひとつもなく、また無駄なこともまったくなかったなぁという感慨を持つはずです。
この人生はひとつの通過点で、私たちは結末が約束された長い旅(輪廻転生)をしているのです。
ですからいまは、その旅そのものをしっかり楽しむことが大切なのかも知れません。
そして終着点についたとき、心に浮かぶ感慨はどのようなものなのでしょう。
         
          (タイ・バンコク・ワットポー : 涅槃佛のお顔 : その足の裏 : 足裏の模様)

とかく私たちは、自分というものを傍観するように観察してしまうものです。自分の心の中に、自分を観察している意識を誰でも感じているでしょう。
それがあまりに大きくなり過ぎると、私たちは不自由になってしまいます。そして、人生という旅の体験を味わうのを阻害することに成りかねないのです。

まるでいまの私たちは、大きな舞台を演じる役者のようなものです。
一人ひとりが主人公であり、同時に誰かの共演者あり、そして全体の助演者でもあります。
いまはその役柄を十分演じて味わうときです。その役になりきって、その役から出来るだけ多くのものを引き出して体験するときなのです。

フランスの女流作家は「女に生まれるのではなく、女になるのだ」と言いましたが、私はこう言いたいと思います。
「私たちはいつか無限なる者になるのではなく、初めからすでに”それ”そのものなのだ」と。
弘法大師・空海は「即身成仏」を唱えました。すなわち、この身このままが”いま仏”なのです。いずれ仏に「なる」のではないのです。
飯島貫実師が著書に書いているとおり、「われ仏・もと仏・御親仏に囲まれて南無」ということでしょか。
私たち自身がが仏であり、私たちはもともとの仏(仏に成るのではなく)であり、その私たちを生み出したのも仏だと言うことです。
         
掃除をするときは「雑巾になりきる」という言葉が禅宗の教えにありますが、人生を生きるときはその役柄になりきることが大切なのでしょうか。

などと考えている間に、慌しい師走も過ぎていきます。
(タイ・バンコク・ワットポー寺院、ワットサケット寺院の仏 筆者撮影)

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12月17日(金)No,0022
プロフェッショナル・仕事の流儀という番組を観ました。
農薬や肥料を一切使わず、しかも腐らない"奇跡のりんご作り"を日本で初めて成功させた青森・弘前の農業経営者、木村秋則さんの情熱に迫った番組でした。
一般にりんごは病害虫に弱く、農薬なしでは収穫量が10分の1になるといわれているのだそうです。その常識を覆した木村さんの畑には、全国の農業生産者や消費者、研究者が視察に訪れ、木村さん自身も全国各地に農業指導に歩いてます。
そして木村さんの歩んできた道のりには、多くの人生のヒントが見え隠れしていました。

木村さんが独自のりんご作りを実現したのは22年前でした。しかしそれまでの苦闘の8年間はリンゴが全く実らず、その為に生活は苦しかったのです。家族に迷惑をかけたと自責の念に駆られた木村さんは、ひとり自殺を決意しました。そして首をつろうと登った山で、彼は栽培のヒントをつかんだのです。
その発想の起点は、一度死んだことによります。自殺を決意して彷徨った山で目にした、りんごの樹にそっくりの枝振りのどんぐりの樹がそれを教えてくれたのです。
りんご栽培に悩んで苦しんでそして一度死んでゼロになったき、ほんものの実りにつながる概念を獲得したのでした。
このように旧い概念を捨て去ってゼロになったとき、私たちは新生するのです。
だからと言って自殺や死を推奨しているのでは勿論ありません。そのようなことは無論慎むべきことです。
そうではなく、木村さんはそのことを「バカになる」と表現していました。分別を捨て、常識をかなぐり捨てて「バカ」になったとき、ほんとうの生命が見えてくるのです。
農薬も肥料もないのに、山奥のどんぐりの樹はしっかり実をつけている。
そうだ、りんご園を出来るだけ自然の状態に近づけたら、りんごもこのどんぐりのように自然に実を付けてくれる、と木村さんは思い当たったのでした。
試行錯誤して悩みぬき、そうしてすべてを捨てたとき得られた発想の転換でした。

木村さんのリンゴ作りの哲学は、育てず手助けするだけというものです。
リンゴ本来の生命力を引き出すために、畑をできる限り自然の状態に近づけることが大切だというのです。
ですから木村さんのりんご園は雑草が伸び放題です。しかしその自然に近い環境が奇跡のりんごを育てているのです。
雑草が伸び放題の土壌はふかふかと柔らかくよく肥え、その生態系が益虫と害虫のバランスを作り出しています。適度に発生した害虫をこれまた適度に発生した益虫が捕食するのです。雑草がしかり根を張る土壌では、りんごの木もしっかりと根を張っています。
自分はりんごを育てる栽培農家ではなく、りんごが自分で生命の華を咲かせるのをサポートする手伝い農家だと木村さんは仰っていました。
肥料や農薬を使わなくても、りんごが本来持っている力を信じて見守ってあげれば、りんごは立派に実をつけるのです。

私たち人間も同じです。
育てられるのではなく、支えられて自分で育つのです。そのままで自然に生命の華がほころんで咲くのです。
ですから、ひとり一人の生きる力を発揮させる環境を考えなくてはなりません。
あらゆるものを消毒し、無菌の環境に近づけてっても、私たちの生命力はふくらみません。やはり自然の環境こそが一番なのです。それを知った上で環境を整えることが必要でしょう。
生きているのではなく、その生命の華が咲く力によって、生かされているのです。この地球というものがひとつの命であり、その全体を生命(ガイア)としなければなりません。
私たちは子供を育てるときでも、子供の生命力(生かす力)を信頼していないところがあります。そうではなく、本来子供たちの裡にある生命の力をまず信じる(認める)ことが大切なのかも知れません。
子供たちを純粋培養しようとしても、化学肥料と農薬では美味しい本物のりんごが育たないように、出来るだけ自然の環境を整え、親たちや社会が見守ってあげることが、本当の子育てと言えなくもありません。
子供を栽培する家(社会)ではなく、子供たちが命の華を咲かせるのをサポートする手伝いをするのだという考えに立ち返ることが重要です。育てず手助けするだけです。
「親はなくとも子は育つ」というよく聴く言葉。そしてもう一方は「親はあっても子は育つ」です。
この感覚についてもう一度考え直してみたいものです。そうすれば美味しくて腐らない、生命力いっぱいの人間が育まれるでしょう。
(ブルーロータスと壁画と仏塔 筆者撮影)

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12月7日(木)NO,0021
タイの首都バンコクはその昔、東洋のベニスと呼ばれていたそうです。街の縦横に水路が張り巡らせれ、そこかしこを船が行き交っていたのです。
残念ながら現在のバンコクはベニスとは違った街に変わってしまいました。水路はどんどん埋め立てられて、その後は道路になりビルが建てられたからです。
しかし、まったく水上交通がなくなってしまったわけではありません。チャオプラヤー河畔の名所はボートで廻ることが出来ますし、エキスプレスという高速ボートも走っています。
その中でも、庶民の足として使われている水路があります。私はその水路を走るボートに、ボーベータワーからラトゥナプラまで乗ってみました。
料金は7バーツ。日本円で20円程度でしょうか。切符はボートに乗ってから、昔のバスの車掌さんから買うようにして購入します。切符売りの係員は船べりの狭いステップを身軽に行き来して、手早く乗船者から代金を集めてゆきます。
巷の渋滞を気にせず、すいすいとボートは水面を滑り、水しぶきを上げながら水路を進んでゆきます。
ボートに乗っているの現地の庶民だけ。もちろん外国人は私たちだけでした。水路の両側には、簡素な造りの家が並んでいますが、そこにはバンコクの一般の人々の暮らしが垣間見えます。

昔の日本もやはり船が交通の要でした。近くは江戸の街がそうでした。そして明治・大正を通しても水路はその活力を失うことなく、昭和初期まで東京は美しい水の都だったのです。
第二次大戦前に外国人によって撮影されたフィルムには、運河を行き交う船や、船上から眺める川岸の桜の美しい並木が写されています。
時を遡って大和朝廷以前は、主要な陸路はいまだ開かれておらず、海と河川のみが交通路だったのです。往事の大和の街は、大阪湾を遡った田園地帯に水路のターミナルとして栄えていたのです。

現在のバンコクの町は高層ビルが雨後の筍のように建てられ、街の景観は日本のそれに似てきています。
経済発展を遂げつつあるタイの首都は、いまの日本のように大切なものを捨て去ってしまうのでしょうか。
濁った水路を渡る風を心地よく頬に感じながら、ボートの座席から眺めるラトゥナプラ辺りの風景は、時代の狭間を覗くような気にさせました。

イギリスの轍を日本は踏みました。その日本の轍をタイには踏んでもらいたくありません。
経済発展は物質的な豊かさをもたらします。しかし、経済的に豊かになった私たちは、本当の幸福を手にしたとはいえません。
競争社会は人々の心に歪を生み出し、失うことへの恐れを増長させます。分かち合うことよりも、いかに独占するかに力を注ぐこともあります。
そして、経済的に豊かになることは、同時にその経済力を保ち続けるために成長することを強います。需要を満たすために商品を生産するのではなく、新たな需要を喚起するために商品開発が行われます。
その結果として街には物があふれ、人々は新しいものを買うように仕向けられ、それを買い続け、やがて人々の目には虚ろな何かが宿り始めるのです。
そうしてぽっかり心に空いた、埋めることの出来ない空間。
欲しがることを止めて、問いかけることを止めて、探し求めることを止めて、走り続けることを止めて、そうしてやがて自分の中に目を向けたとき、見えてくるものは何でしょう。

あなたがあなたであること。私が私であること。そして、あなたが私で、私があなたであること。

バンコクの街は活気に溢れ、人々は忙しく歩き、道路に車の渋滞が続いています。
澱んだ水路を滑るボートは、そのことを識っているのでしょか。

物干しから子供たちが水路に飛び込む光景が目の端に入ってきました。なぜか水音はかき消されて、水しぶきだけが熱帯の太陽にきらめいています。
そのとき「バンコクはその昔、東洋のベニスと呼ばれていた」と、ガイドブックに書かれていたあのフレーズが、ふたたび私の心の中にリフレインされてきました。
同時に私の乗ったボートは、終点のラトゥナプラの船着場についていました。
(タイ・バンコク:運河を行くボート他 筆者撮影)

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11月27日(月)No,0020
22日間の旅は、あっという間でした。
まずはタイのバンコクへ飛び、そのあと北都チェンマイへ。
そしてスリランカの文化三角地帯(世界遺産が多数)を廻って南下。再び北上してスリランカのおよそ半分を廻りました。
アインシュタインは、「時間は相対的なものだ」といっていますが、まさにその通りです。
長い一瞬もあれば、あっという間の旅の日々もあるのですから。

さて、今回の旅にはいくつかの目的がありましたが、そのうちのひとつが、仏教遺跡を巡ることでした。

仏教はインドを源流としてアジア全域に伝播しましたが、はじめに伝えられたのは「スリランカ」だといわれています。
初めて釈迦の教えが経典としてなったのもスリランカだと伝えられています。

釈迦は三度スリランカを訪問したと、彼の地では信じられています。そのうちのひとつがキャラニヤにある「ラジャ・マハー・ヴィハーラ寺院です。
昼間のが人口600万人ともいわれる、スリランカ最大の都市「コロンボ」から渋滞を抜けて北へ30分。キャラニヤ河を渡ってしばらくするとあたりは住宅街となり、道は大きな三叉路にさしかかります。
そこを東へ向かうとすぐに古い町並みが現れ、やや狭い道路の両側に煤けた構えの商店が続きます。
やがてバスターミナルの広場が視界を伸びやかに開放するのと同時に、その先に緑色に萌える低い塀で囲まれた寺院の外苑が見えてきます。
その緑の大地に弾かれるように視線を跳ね上げると、白い大きな「ストゥーパ」が青空に聳えるように浮かび上がります。
ここが「ラジャ・マハー・ヴィハーラ。釈迦が沐浴して説教したという寺院です。
「寺院」の創建は2,350年前にさかのぼります。つまり紀元前3世紀にはすでにこの地に寺院が築かれていた訳です。
         
ここ「ラジャ・マハー・ヴィハーラは遺跡や観光の寺院ではありません。ここは信仰を託す「場」であり、信仰が呼吸する「所」です。
釈迦が訪れた往事からなんら変わらない、朝な夕なに心を預けにくる民衆の信仰が息づいている寺院なのです。
伽藍に上がる階段に続く参道で花や線香やろうそくを求め、そして境内に火を灯し、香を手向け、花を捧げ、釈迦がその根元で成道した菩提樹を移植した、釈迦に木蔭を与えた同じ菩提樹に水を注ぐ人たちの場所です。
そしてこの地は今回の旅の中で、私がもっとも神意(佛魂)を感じた場所でもありました。

「ラジャ・マハー・ヴィハーラは広大な寺領を誇る寺院ではありません。
しかし、本堂、ストゥーパ(日本で言う仏塔(五重塔にあたり卒塔婆の語源)、僧堂などが伽藍としてきちんと整えられた寺院です。
御堂や境内には、信仰篤い老若男女が経典を読んだり礼拝をしたり、ボーディプージャという祈祷を行ったりしています。
それらの人並みは早朝から夕闇が濃くなったあとまで絶えることがありません。
葬式仏教、お彼岸とお盆の仏教が常識となっている私たち日本人から見ると、それは驚くべき信仰の発露そのものであり、日本人が失ってしまった素朴な畏敬の念と、己が生かされている身であると意識しなければならないことを教えてくれているようです。

私は歴史的なこの場所に佇んで、釈迦の成道について考えを巡らしてみました。
苦行を捨てて森から出てきた釈迦は、村娘スジャータから捧げられたミルク粥をすすり、そして菩提樹下に端座しました。
そして彼は法(ダルマ)を得たのです。しかし、ダルマは釈迦が見つけたものではありません。
それはかつて在り、今も在り、永遠に在り続ける理(ことわり)を裡に観たに過ぎないのです。しかし、それは気高く崇高で円満な境地でした。
仏教は釈迦のその個人的な体験に基づいています。
そして、同じように私達にとっても宗教とは個人的な体験に過ぎないとも言えるのではないでしょうか。
そのことこそが普遍的なことなのです。

釈迦が成道した時と同じ菩提樹が大きく枝を伸ばすその下に佇み、青々と繁った葉の隙間を縫ってこぼれる日差しをはらはらと浴びていると、釈迦の個人的な一体験が、同時に私個人の体験でもあり得ることを素直に感じ取ることが出来ます。
そしてここにこそ、宗教というもののダイナミズムが息づいているのかも知れません。
そしてこれこそが、釈迦の足跡なのだと思えなくもありませんでした。

(写真:スリランカ・ラジャ・マハー・ヴィハーラ寺院 筆者撮影)
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10月13日(金)No,0019
「ホメオパシー」という言葉をご存知でしょうか?
聴きなれない言葉かも知れませんが、同種療法と訳されていて、代替医療のことを指しています。
この療法は200年ほど前にドイツの医師によって体系付けられた療法で、日本語訳の「同種」の語が示すように症状として現れているのと同じ症状を起こさせる物質を処方して、人間の免疫力の正常な反応を呼び起こして症状を改善する治療法です。

例えば、頭痛を訴えている患者に対しては、頭痛を引き起こす物質(レメディーと呼びます)を服用させるわけです。
なんだか荒っぽい治療法のように思えますが、服用させる物質は極微量に薄められて造られているので害はありません。
実際、服用する錠剤などに含まれる有効成分はオリンピックプールに砂一粒という割合より薄く希釈されています。不思議なことに、薄めれば薄めるほど効果が高まるのだそうです。

処方されるレメディーの物質は、植物や鉱物や動物などの自然の素材なので副作用の心配がありません。したがって妊婦や子供などが服用しても安全なのだそうです。
イギリスなどでは王室もホメオパシーを活用しており、専属のホメオパシードクターを抱えているそうです。国立のホメオパシードクターを養成する大学も設けられており、社会的にも一般的な療法であるため、健康保険も適用になるそうです。
処方されるレメディーは3000種もあり、代表的なレメディーは街の薬局などでも売られています。近頃ではその内の幾つかが日本でも手に入るようになったようです。

いわゆる西洋医学は症状を打ち消す「対症療法」を確立したわけですが、ホメオパシーは症状を被せるように強める働きをもって自己治癒力を目覚めさせる方法を確立したわけです。それは症状の原因を根本的に直すために、身体と心のバランスを回復して本来の全身状態(精神も含めて)を回復させようとする取り組みです。

現代医学は進歩し続け、多くの難病が解決されるようになって来ました。でも、病気で苦しんでいる人の数は減ってはいないようにも思えます。
何かが足りないか、どこかのボタンを掛け違っているような気がしてなりません。
「病気が教えてくれる病気の治し方」という本に書いてあるように、病気は私たちの心身のバランスの崩れを教えてくれているのかも知れません。
だとしたら、そのバランスを崩している原因を見直さなくてはいけないのでしょう。対症療法は、本当の原因を突き止めることなく、症状だけを取り除いてしまって、かえって慢性病や癌などの重大な疾患を生成してしまっている結果になっているとも考えられます。

ホメオパシーがなぜ効果を発揮するのか?その辺りに答えのひとつのヒントがありそうです。
(写真:スリランカ 緑が香る友人宅のテラス 筆者撮影)

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10月6日(金)No,0018
今夜は中秋の名月です。
雨模様の朝から始まった一日でしたが、夕方にはすっかりその雨も上がり、午後8時前からは雲間から秋月が覗いています。
月は私たちにとってとても重要な存在です。
かつては太陰暦(月齢を基にしたカレンダー)で暮らしが営まれていたわけですし、私たちの肉体も月の影響をたくさん受けているようです。
ヨハンナ・パウンガー他著の「月の癒し」(飛鳥新社刊)を読むと、私たちの身体と暮らしが如何に月とともにあるかが解っ月とともにあることが解りとても驚きます。
月は地球という天体のそばに、あるべくしてあるのだと思います。

仏教国スリランカでは、満月の日は「ポーヤー」という祝日です。
5,000年の歴史を持つといわれる「アーユルヴェーダ」(生命科学)でも、自然や人間の肉体と月との関係にとても気を使います。
治療に使う薬草(ハーブ)は満月の日には収穫しませんし、治療のスケジュールを立てる場合も満月との兼ね合いを考慮します。
月がもたらすリズムが、この地球や自然や私たちの心身の基調にあると考えられているからです。

日本の古事記においても、「月読みの命」という神様が天照とともに登場します。

世界で最も高い的中率を誇る「ジョーティッシュ」(ヴェーダ占星術)でも、月の座は私たち自身を現す室となっています。

中秋の名月を見上げながら、月について少し考えてみるのもよいでしょう。そういえば普段私たちはあまり月を見上げていないかも知れません。美しい月がぽっかり浮かぶこんな夜ぐらい、その月をしみじみ見上げてみてください。
(写真:スリランカ・何気なく民家の軒下に置かれた「月」 筆者撮影)

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10月2日(月)No,0017
「人生の半分は、もの探しにあり」という格言があるそうです。
ははん、と思った方も多いことでしょう。
まったく、いつでも何かを探しているような気がします。
ところで、書類でも小物でも必要な何かが見つからないときは、どこを探しても出てこないものです。
いつもならこの辺りに仕舞い込んでいるはずなのに・・・と考えて引き出しをまさぐってみても、鞄やファイルをかき回しても、そんなときは一向に探しものに行き当たりません。
だのに、数時間(或いは一日か数日)置いてあせる心を落ち着かせた後で探してみると、あれっ、こんなところにあったのか、というところからあっけなく出てきたりします。
しかもさっき探して見つからなかったところから出てきたりするから不思議です。

「認めたものが現れるのが現象世界」の法則です。
「ない、ない」と思って探していると、その「ない」という心の在りようがそのまま顕れて、探し物は出てきません。
「なくなった」と思って探しているから、いつも仕舞っているところから容易に出てこないのです。
しかし、数時間置いて心が「ない」ということを掴むことをしなくなってから探したり、数日おいて探すこころを忘れ去ったら、探していたものはひょっこり出てくるのです。
それは「ない」という心の掴みが盲目にさせていた自分が、その掴みを手放したとき見えてくるようになったからです。
すべては心の顕れということが、こんなところにも実証されているのです。

何かを失くしてしまったとき、失くしたことを掴んでいる限りそれは戻ってはきません。そんな時は「すでに在る」と心を転換してみてください。失くしたと思っていたことが誤りで、本当は失くしてなどいなかったのだと気がつくでしょう。
見つからないと思って探していては、見つかる筈などありません。
すでにそれを私は手にしている。それがいままさに顕れようとしている、と思って探せば、それは容易に見つかるのです。
「人生の半分は、もの探しにあり」あなたはいま、何を探しているのですか
(写真:スリランカ・雑貨屋の店先の笑顔の少女 著者撮影)

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9月30日(土)No,0016
○○べきだ、という言い方があります。
例えば、男とはこうあるべきだとか。人間としてこう生きるべきだとか、私たちは普段から何気なく○○すべきだと口にしているものです。
また、口にはしないまでも心の中でそう考えていることがあるものです。
しかし、考えてみるとそれは他人を縛り付けていることに他なりません。
そして同時に自分自身をも縛り付けていることになるのです。

禅の書物に「無門関」というものがあります。その中にこんなエピソードが取り上げられています。
中国の古い時代、あるところに大きな禅の道場(僧院)がありました。
あるときその道場の師匠が、弟子である雲水(修行僧)を呼び出して問いを設けました。
「ここに一個の徳利がある。これを徳利と呼ばずなんと言えるか。誰か一言いえ」と。
すると主座(修行僧第一のひと)である僧が前へ進み出て、
「これを花入れと呼ぶことも出来ないでしょう」と答えました。
師匠は何も言いませんでしたが、その答えに満足していないことは明らかでした。
場が静まり返ったそのとき、居並ぶ僧たちの背後から一人の男が進み出てきます。
男は僧たちの間から抜け出ると、置いてある徳利を蹴飛ばしてまた僧たちの中へまぎれてしまいました。
一同はその行いを息を呑むようにして眺めていました。
そして師匠のほうに目をやると、師匠は満足げに笑みを浮かべているのでした。

私たちは物事を概念化して整理しようとします。
首の細まった陶磁器を観て、これは徳利だと決め付けます。
あなたがそう思った瞬間から、それは徳利以外の何者でもなくなってしまいます。
しかし、実はそれを徳利だと決めるのは、便宜上の必要からだけです。
何かの枠に収めないと物事を整理できないからそうするのです。
でもそのことで、私たちは本当は不自由になってしまっているのではないでしょうか。
そこでくだんの僧は、「物事にレッテルを貼ることに意味はない」として蹴り飛ばしたのでした。
ひとつの概念に収めれば、それはそれでしかなくなってしまいます。
徳利のように見ても、花入れかもしれませんし、まだほかにも無限の働きがあるでしょう。
しかし、それを徳利といってしまったときから、それは徳利でしかなくなってしまうのです。
これはなんという不自由なことでしょう。

○○べきだ、と私たちが口にしたり思ったりするとき、私たちは徳利だと決め付けたと同じ現象に陥っています。
本当はあらゆるものは限定が出来ません。
それを私たちが何かの枠の中に限定するとき、私たち自身が枠の中に閉じ込められているのです。
それこそが囚われです。
自分に対しても、他人に対しても、またあらゆるものに対しても、その働きに箍(たが)をはめて思考するとき、そのことで私たちは自らの働きにも箍をはめてしまっていることに気がつかなければなりません。
これを「分別を離れる」と禅では表現しています。
あらゆる概念から自由になったとき、私たちは自由そのものであることが出来るのです。
そのことを「そのままの心」とも言います。
「善をも思わず、悪をも思わず」と禅の六祖慧能は言いました。

こういうときはこうするべき、だとか、この立場の人はこうするべき、だとか口にしたり考えたりしているとき、私たちはそういった考え(概念)の奴隷になっているのかも知れません。
(写真:スリランカ・寺院のストゥーパ 筆者撮影)

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9月29日(金)No.0015
人は必ず死を迎えるものです。
何人もこの結末から逃れれることは出来ません。
私の義父がなくなりました。86歳の高齢で、天寿を全うしたといってもよいかも知れません。
近しい人の死に直面するとき、私たちは生命の無常を感ぜざるを得ません。
誰でも必ず死を体験せねばならないと解っていても、人生とはいったい何なのだろうという考えが浮かんできます。
釈迦は「涅槃経」の中で、悟りを開いたお釈迦様でも、肉体が衰えて死の床に就くのですか、と訊かれたときむっくと起き上がって座禅の姿勢となり、「自分は永遠に生き続ける生命である」という意味のことを仰ったそうです。
私たちは死んだらどうなるのでしょうか?
死について考えることは、生きることについて考えることでもあります。
先頃「霊界の宣伝マン」を自称していた、丹波哲郎さんも亡くなりました。
人は生まれ、そして死んで行くものだと解っていても、感慨は深まるばかりです。
良寛さまにこんな逸話があります。
あるとき名主様が良寛さまにおめでたい書を頼みました。良寛さまはしたためて曰く、
「親が死に続けて子が死に孫が死に」
出来上がった書を観て名主様はびっくり仰天!良寛様はにこにこ笑っていたそうです。
「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」
これも良寛さまの句です。
刹那に一喜一憂するわれわれ凡人には計り知れない境地なのかも知れません。
あるがまま。そのままを生きる。
だからこそ、あたり前の中に在る幸せ。
時に死について考えをめぐらせて見るとき、いま、生きることの感慨も深まるものです。
(写真:スリランカの古都キャンディのホテルのエントランス  筆者撮影)

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7月9日(日) NO.0014
「岡本 太郎」氏の番組を放送していました。
お亡くなりになってから数年たち、また亡くなる前数年はパーキンソン病を患っていたとのことで、最盛期のようにマスコミにも露出されていなかったので、すでに過去の人という感じがあったかもしれません。
私が岡本太郎を知ったのは小学生の頃です。もちろんそれは大阪万博の太陽の塔ででした。
その後私は版画が好きになり「池田満寿夫」氏の版画を手にいれました。池田満寿夫は芥川賞を受賞したことが示すように文才にも秀でた人です。その池田満寿夫氏が「私の調書」という自伝的な著書の中で、自分が日本人の画家でただ一人尊敬するのは岡本太郎氏であるという意味のことを書いています。それがきっかけで私は岡本太郎という人に興味をもったのです。20歳を過ぎた頃だったと思います。
その後岡本太郎氏の著書や氏に関する著書を読む機会があり、私の心にいくつかのフレーズが残りました。
そのひとつ。岡本太郎氏のところにある画学生が訪ねて来ました。そして自分は画家を目指しているのですが、どうしたら画家になれるでしょうか?と訊いたのだそうです。
すると岡本太郎氏は怪訝そうに眉根を寄せ「君は絵を描いているのじゃないのか?」と訊き返したのだそうです。
画学生は「そうです」と答えました。岡本太郎氏はぱっと花が開くように表情を変化させてこう言ったのだそうです。
「絵を描いているのなら、もう君は画家じゃないか」と。
このエピソードは岡本太郎氏の考え方の基本を示している善い例だと思っています。つまり、自分がどう在るか、それが重要なのであり、それこそが真実であるということなのです。他人や社会に評価されること、あるいは評価されないことはどうでもいいことなのです。自分が今なんであるかが大切であり意味のあることなのです。
私たちはとかく他人の眼を気にし社会での自分の位置を確認したがるものです。しかし本質的にそれがどれほどの意味を持っているのかを考えてみなければなりません。
私たちは「絵を描くこと」「絵で表現すること」を離れて、「絵で食べていくこと」「絵で評価されること」に囚われてしまいがちなのではないでしょうか。
もうひとつ。「きれいということはよくない、美しくなければならない」という主張を岡本太郎氏はされています。
「きれい」と他人が感じるということは、作者がどこかおもねる心のあるからだと岡本太郎はいうのです。それは本当の表現をしているとはいえない。本当の自分を表さずに中途半端なところで妥協している表現であるというのです。
しかし「美しい」と他人が感じるときはぎりぎりの表現の現れです。せめぎ合いしのぎを削る相克のさなかに彩やかに生命力が発露しているときです。
「なんだこりゃ・・・・!!うゎっ、美しい。。。」というフレーズを岡本太郎氏は生前ジェスチャーを交えて繰り返しておられました。観たこともない表現を目の当たりにして、人は「なんだこりゃぁ」と引きつけられます。そして次の瞬間そこに秘められたあるがままの生命の輝きに気づき「うゎっ」という驚きの音を発します。それから生命の本当の煌めきを受け入れて「美しい」とうっとりするものなのです。
岡本太郎氏は漫画家である岡本一平氏と作家のかの子氏の一粒種です。中でも太郎氏は母親であるかの子の影響を強く受けて育ちました。妥協しない強い性格は母から受け継いだものだったのでしょう。
自我に目覚めたときから死の淵へ飲み込まれるまで、岡本太郎は岡本太郎で在りつづけたのです。
縄文の造形に深い理解と興味を抱き続けた彼の美意識は、世界中の呪術的造形にも向けられました。それらの中に岡本太郎は生の本質を窺おうとしていたのかも知れません。
独立した独自の存在であること。他人との安易な妥協を排除してどこまでも自分自身の中に真実を求めること。岡本太郎氏が示したひとつの生き方は、生命に対する深い愛情に裏打ちされた激しい命の賛歌そのものだったのかも知れません。
(写真:スリランカ世界遺産の街ゴールの灯台 筆者撮影)

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5月26日(金) NO,0013
他人を見下す若者たちが増えているのだそうです。
フリーターの若者3人がファミレスでだらだらと時間を過ごすという漫画が流行っているのだそうで、その漫画の主人公3人はいわゆる「仮想的自信家」なのだそうです。自分以外の人間はすべて取るに足らない人間だと考えているのが彼らの特徴のようで、彼らは共通して自分を大物だと表現するのです。
その表現方法が、自分以外の人間の価値を自分より低く評価するという形式を取っているのです。
「あいつはホント、大したことねぇよな」とか、「俺は絶対大きなことをやって見せる」とかが口癖らしいのです。
しかし、本当に彼ら若者たちは自分が偉くて(実力があり)他人はみんな駄目人間だと感じているのでしょうか?

私たちは多くの場合、自分の本当の心の裏返しを他人に対して表現して見せるものです。例えば気が小さい男性が虚勢を張るのが典型的な例です。
本当に強い人間は、自分を強く見せる必要などありません。人間は他人の評価よりも自分自身が下すの評価により大きな影響を受けるものです。実は自分が気が小さい人物であると自分が感じていることへのコンプレックスが、必要以上に威張ったりすることを彼らに強要しているのです。
この場合の「他人を見下す」という若者たちも同じことで、実は彼らこそが自分のことを取るに足らない人間だと思っているのです。
そして、そのことに対するコンプレックスの裏返しとして、彼らは自分以外の他人を見下すのです。それは自分を価値がある存在だと感じるためには、対比として自分以外の人間の価値をなくすことが必要だからです。

その情動の根本は「怖れ」です。
自分の内面に巣くう「怖れ」が彼らにそうさせているのです。自分を「無価値」だと感じることの恐怖が、彼らに虚勢をはらせるのです。
ではなぜ、彼らは自分を「無価値」な存在だと感じているのでしょうか?
それは、そのように親や社会から「教育」されてきたからです。
彼らは「自分」を表現したときに、親や社会から受け入れてもらえなかった苦い体験を持っています。それはちょっとしたことの積み重ねで大きく育ってしまう「蔭」の部分です。
子供は自分の親に、ありのままの自分を受け入れて愛してもらいたいのですが、未熟な親たちは、条件付けで受け入れたり愛したりします。例えば、一所懸命に勉強して成績が上がったら受け入れてくれるとか、親に希望にそった行動をしたら愛してくれるとかが典型的なものです。それが本当の愛情ではないことは誰にでもわかることです。
しかし、子供たちは自分を愛して(受け入れて)もらいたいために、「本当の自分」を偽って、受け入れてもらえる自分を表現するようになってしまいます。なぜなら、子供たちは誰でも自分の親が大好きで、その大好きな親に受け入れてもらい、愛してもらいたいと切望しているものだからです。
そのことによって、彼らは偽りの自分の奥にある「本当の自分」は愛されない自分なんだと思い始めます。それが何度も繰り返されると、やがて親に愛されない自分・・・「本当の自分」はすなわち価値のないものであり、「無価値なもの」だと思いが心を支配しはじめます。そうしていつの間にか自分は価値のないものだという認識が植えつけられることになってしまうのです。

では、彼らは(私たちは)本当に無価値な人間なのでしょうか?
いいえ、そうでないことは明らかです。そべての存在は、いずれもかけがえの無いものであり、価値の無いものなどこの世の中に存在してはいないからです。
しかし、その事実は自分で探して当てて自分で「受け入れる」しかありません。誰も他人に代わってそれを探してあげることはできませんし、その事実を「受け入れ」てあげることもできません。
それは、ここが人生の大きなテーマのひとつだからなのです。
そうして私たちは、自分がかかけがえのない存在であるということのその「自覚の程度」によって、この人生においての幸福という果実の収穫量に大きな差ができるものなのです。
自分を尊ぶこと、自分が大いなる存在と一体であること、自分の生命が根源的生命の顕われであるということにどうか気づいていただいて、そしてその自覚をいっそう深めて、より幸福な人生を築いてもらいたいと願っています。
(写真:コロンボ郊外・水を汲む少女 筆者撮影)

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5月24日(水) No,0012
何気ない一日を過ごしていても、ときに腹立たしい出来事に遭遇することがあります。
いいことばかりが起こることが当たり前なのに、ままならないものです。ほんとうは「善いことを見つけて褒める」ことが「善いことを引き寄せる」ためには大切なのですが、しかし、私たち(特に私)は凡夫です。もしも腹立たしいことに出くわしてしまったら、どう対処したらよいのでしょう。

少し例え話で話してみましょう。
ある時、遠い外国から初めて日本にやってきた人がありました。彼の名前は「ムチヲ」といいます。ムチヲは初めて日本に来たので日本語が解りません。そしてもちろん日本の文化や風習にも疎いのです。
さて、ムチヲはごみを「道」に捨てるのが当たり前です。
それは彼が生まれ育った南国の村には牛がたくさんいて、バナナの皮もココナッツの殻も、そこいらにほうっておけばみんな牛が綺麗に食べてくれたからです。子供の頃からそのようにして育ったムチヲは、紙やビニールでも同じように道に捨ててしまいます。
あなたがもし、街角でムチヲと遭遇したらどうなるでしょう。・・・きっとあなたは軽蔑したまなざしで彼を見つめ、なんてだらしない人なんだろう、と不快感を持つに違いありません。なぜならあなたにとっては、ゴミはくず籠に分別していれることが当たり前だからです。
しかし、ムチヲにそういった習慣が無いことをあなたが知っていたら、あなたは彼の行為をどう思うでしょうか?きっと彼の育ってきた環境について知らない場合とは、かなり違った見方をするのではないでしょうか。

私たちが街角で腹立たしい人たちに遭遇するとき、私たちはいわゆる「ムチヲ」と遭遇しているようなものです。
彼らには私たちの常識は通用しません。なぜなら、彼らは私たちとは違った環境で育ってきたからです。
ですからあなたが、もしもムチヲに「そんなところにゴミを捨ててはだめでしょ」とたしなめたところで、ムチヲにはその言葉が理解できません。もちろん彼には日本語も理解できないのですが、もしも日本語を理解できたとしても、ムチヲにはあなたの言葉の意味するところが解らないでしょう。

スーパーマーケットの入口で、道を譲ってあげたのに会釈もしないで通り過ぎる人がいると、憤っている人がいました。
しかし、道を譲ってもらった人は、あなたの行為の意味が解っていなかったのかも知れません。だからその親切(心遣い)に対して正当な評価ができなかったのでしょう。その人名前はは多分ムチヲというのに違いありません。
人間は、いつでも自分の常識に囚われて生きています。しかし、あなたにとっての常識が、誰でもの常識とは限りません。
自分自身の心に把持していないものは、誰でも気づかないものなのです。
こころに「美」の原型があるから美を感受することができるように、入口で道を譲るという気遣いが出来ない人が、入口で道を譲ってもらったことに気づかないのは、ある意味での道理なのです。

だからといって、いわゆるムチヲたちをたしなめても仕方が無いこともお解かりでしょう。だって彼らは日本語が解らないのですよ。私たちが例えば「スワヒリ語」で注意されても意味不明なように、ムチヲたちには私たちの言葉が通じないのです。
このようなことから、ムチヲたちに罪が無いのも理解できることと思います。
すべては「育ってきた環境」と「持っている常識」による行き違いだったのです。ムチヲたちを育てた両親や環境(社会)にこそ憾みがあるのであって、この場合ムチヲたちもある種の被害者であると言えなくもありません。

このように、私たちがもし腹立たしい出来事に出遭ってしまったときは、「ムチヲ理論」を思い出してみてください。
あなたに不愉快な思いをさせたムチヲは、あなたを不愉快にさせようと意図してそうしたのではないのです。ムチヲたちはあなたとは違った「常識」の中で生きているのであって、彼らにはそうする自由があるのです。私たちは彼らの自由を認めようではありませんか。それは翻って、私たちの自由を保障するこちにもなるのですから。
大事なことは、誰もあなたを不愉快には出来ないということです。不愉快と感じるのはあなた自身の感情なのであって、それはあなた自身がコントロールものだからです。あなたがあなたの主人公なのであって、あなたがこころを平静に保ってさえいれば、誰もあなたのこころを直接波立たせることはできないのです。
不愉快という「もの」があって、それを誰かがあなたに投げつける訳ではないのです。あなた自身のこころの働きが、自ら不愉快を感じるものなのです。
行雲流水の如くといます。空の雲は行き過ぎ、水は流れるままです。その事実を受容しながら、そのことに囚われないこころ。この心得こそが、自分を護ることへ、こころの平安へと導いてくれる道なのかも知れません。

腹立たしい事象に出遭ったとき、そのときこそあなたのこころが試されているのです。
(写真:スリランカ・ホテルアジアのエントランス 筆者撮影)

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5月17日(水) No,0011
ヤンキースの松井秀樹選手が左手首を骨折してしまいました。
今朝ニュースを観ていたら、松井選手のインタビューを放送していました。その中で、とても興味深い発言を松井選手がしていました。それはどんな発言なのかというと・・・
「ずうっと順調に展開してきていたので、いつかはこのようなことが起こるのではないかと、いつも心のどこかで怖れていました」という発言です。
私は松井選手のこの発言を聞いて、すぐに聖書にあるイエス・キリストの言葉を思い出しました。
「あなたの怖れていることが、あなたに起こる」
私たちにとって、人生の一番の敵は「不安」と「怖れ」です。これらが私たちの人生を混乱させ、めちゃくちゃにしてしまう張本人なのです。
ほんらいは「いいことばかりで当たり前」なのです。
しかし、私たちは自分を信じることができず、私たちを在らしめている無限なるもの(絶対理念)を信頼することができず、つい「不安」と「怖れ」を心に抱いてしまうのです。すると思考は現実化するものですから、その「不安」や「怖れ」がいずれ現実のこととして身に降りかかってくることになるのです。
松井選手ほどの強運の持ち主でも、「不安」と「怖れ」を想ってしまうものなのかと、私は正直驚きました。
そうすると、私たち凡人が「不安」と「怖れ」を想ってしまうのは、至極当然のようにも思えてきます。
しかし、そのようなことに感心している場合ではありません。ほんとうは「いいことばかりが当たり前」なのです。困ったことなど起こらないのです。その感覚を、いつもこころに把持していることが何よりも大切です。
私たちには、困ったことなど起こらないのです。どんなことが起こっても、困らないという心の持ち方が重要なのです。いつでもそれを忘れずにいたいものです。
(写真:スリランカ・象の孤児院・盲目の巨象 筆者撮影)

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5月16日(火) No,0010
先日駅ビルの土産物屋さんで「ういろう」を買いました。私の母が親戚などへのお土産にと求めたのですが、驚いたことにその売り場には包装紙が無いというのです。
キヲスクが出している店のようなのですが、うりろうを卸しているところから包装紙が来ていないので、包むことはできないというのです。
私の母は、わざわざ前日切符を買いに行ったときにその売り場に立ち寄り、包装して貰えるかどうか確認してきたにも拘らずの対応です。
「包装紙も置いてないの?」の私の問いかけに、「やめますか?」との返事。。。嫌なら買わなきゃいいでしょ、という態度でした。しかも店員は高校生のバイトではありません。50前後の白髪まじりのおばさんです(眼がいっちゃってました)。
私は普段あまり怒らない方ですが、そのときは不思議と腹が立ちました。
人間は、眼・耳・鼻・舌・身(皮膚)という感覚器官だけで物事を感じているわけではありません。それ以上のもの、例えば相手の発している波動を人間は感じているものです。
くだんの店員のおばさんは、「あなたの腹の虫の居所が悪くて怒っているんでしょ」、という態度がみえみえでしたが、本当は、私が怒っているのではありません。店員のおばさんが、私を怒らせているのです。その原因は売りこのおばさんからの波動にあります。残念ながらそのことにおばさんは気づいていません。
「ういろう」の販売元から包装紙が来ていないのかも知れません。キヲスクはそういうシステムがまかり通っているのでしょう。そしてそれはその売り子さんにとって当たり前の日常だったのかも知れません。
しかし、それは販売側の論理であって、購買側の論理が抜け落ちてしまっています。
しかもおばさんは、販売側の論理に立っているのではなく、自分を擁護することだけを考えているのです。相手の事情や状況を慮る心などありません。
包装紙が無いのは私の責任じゃなくて、ここのシステムなんです。このシステムが気に入らないのなら、どうぞお引取りください、ということです。
しかし、それではその仕事をしている価値があるのでしょうか?
せっかく人の役に立てる、直接人と触れ合える、心遣いや気遣いを発揮できるポジションにいながら、それらを初めから放棄してしまっていては、それでは人間味を発露させるところが無いではありませんか?
もっと自分のほんとうの部分を発現させるべきです。それであなたの心が悦んでいるのなら別ですが、私はそうではないように思います。それは、自分の生命に対する冒涜です。自分を尊い存在であると認めて、初めて他人をほんとうに尊ぶことができるのです。
もし、あの売り子のおばさんに相手を思いやる気持ちが少しでもあれば、私が腹を立てることなど無かったことでしょう。
それが残念でなりません。
いま、自分本位のわがままな人が増えていると聞きます。他人を受け入れられない人は、恐らくほんとうの意味で自分を受け入れていないと思います。そういう人たちは、誰かに反発する心を持っています。誰かを恨んでいたり、憎んでいたりしていることがほとんどです。
そして、ほんとうの自分の姿、ありのままの自分を受け入れてもらっていない場合が多いのです。
私たちは、自分の生命を美しいと認めなければなりません。自分を尊い存在であると認めなければなりません。それはどうしてですか?答えは簡単です。それが真実だからです。
欠点だらけの、いまの自分、を自分で受け入れて認めてあげること。自分を好きになること。ありのままの自分自身を愛すること。そのことが是非とも必要なのです。

(写真:キャンディ・仏歯寺の回廊 筆者撮影)

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5月5日(金) No,0009
「水」を飲むようにしています。一日に2リットルは飲むでしょう。特別なものではなく、水道水を浄水器に通したものを飲んでいます。
ご存知のとおり、私たちの身体の70%以上は水分です。私たちは水が無いと生きていくことができません。
「神」という言葉がありますが、これは言霊学で考えると「火」と「水」です。
「火」は陽の原理です。焔は燃え上がるもので、よって縦の働きを表しています。縦に伸びて行くことは、過去・現在・未来のように時間的概念を包含しています。先祖・子孫のような生命の継承も入ります。
「水」は陰の原理です。水は水平に拡がる性質があり、よって横の働きを表しています。横は広がるもので、空間的概念を包含しています。
この陰陽の原理、縦の原理と横の原理を兼ね備えたものが「神」というわけです。
私たちの肉体は「陰」の原理です。これは霊の「陽」に対しています。同じ陰陽の太陽と月でいえば、肉体は「月」です。なんとなく身体に水が適しているのが判る気がします。
卓越したチャネラーであった、エドガー・ケイシーの「フィジカル・リーディング」でも、健康を保つために「水」を飲むことを勧めています。ここでは健康の維持には「正しい排泄」が不可欠であることが語られていますが、そのためにも「水」をたくさん飲むように助言しています。事実、水をたくさん摂るとお通じは改善されます。
インドのヴェーダ哲学に起源を同じくする「アーユルヴェーダ」という伝承医学でも、その中心は「排泄」です。それを促すために「パンチャカルマ」というオイルマッサージなどが処方されるのです。
日本にいると「水」はどこにでもあるような気がしますが、日本はまれに「水」に恵まれた国です。外国旅行などをすると、水については常に気を使います。しかし、最近では日本でも水道水をそのまま飲料にする人は少なくなっているようで、いまは誰もが水を買わなければならない時代になってしまったことが残念です。私が子供の頃には、「水」を買う時代の到来が冗談のように語られたものですが、今ではそれが当たり前の現実になってしまいました。
戦前の東京の映像を観たことがありますが、縦横に美しい水路が走る、まさに水の都でした。田舎に至っては、家の前が清流だったわけです。
いま、店頭には色々な水が並べられています。ミネラルウォーター・πウォーター・波動水・転写水・海洋深層水と、何がなんだか解らなくなります。でも、やはり一番いいのは自然の湧き水かも知れません。
私が生まれたところにも、日本名水100選に選ばれた湧き水があるのですが、ほんとうに美味しい水です。
水はご存知のとおり酸素に水素の原子がふたつくっ付いた構造になっています。その酸素にくっ付いているふたつの水素原子は、水素結合という角度130度ぐらい(正確には134度だったかな?記憶が定かでありません)の強固な結合となっているのだそうです。その結合角度を開くと、エネルギーが満ちてくるのだそうで、それを使っているのがπウォーターのようです。
転写水で有名なのは、南米のジャングルにある「蘭」の一種の波動を移した転写水です。
アメリカの学者が研究していたもので、メキシコにそれを使った研究病院がありました。末期がんなどの難病が治ることで有名になりました。
もっとも現在の西洋医学で使用される化学薬品(薬)も、そのルーツはジャングルの植物にあるのがほとんどです。その有効成分を、化学合成して製造しているのです。
しかし近年ジャングルの消失が著しいので、アメリカはとにかくすべてのジャングルの植物の種を採取して保存しています。将来有効な薬剤になるかも知れないからです。その前に絶滅してしまったら、二度と手にすることは叶いません。
「水」はクラスターという、ぶどうの房のような繋がりをしているのだそうで、そのクラスターが小さい方がより善い水だということだそうです。
体験的に、水をたくさん飲むと排泄も順調(朝起きてすぐに出るのが正常)になりますし、ダイエット(体重の適正化)にも有効なような気がします。
みなさんも是非たくさん美味しい水を飲んで、健康を維持してください。
(写真:スリランカ・ヒルトンホテルの庭園の噴水・筆者撮影)

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4月29日(土) No,0008
自動車を使わないときは、なるべく自転車で行動していたのですが、その自転車の後輪が先日爆竹のような大音響とともにパンクしてしまいました。唖然として自転車店へ持ち込んだのですが、店主曰く「タイヤとチューブを替えることになるので、修理するより中古の自転車を買ったほうが得だ」といわれてしまいました。
なんとも使い捨ての時代です・・・
古い自転車をまだほかにも持っているので、とりあえずそれに乗ることにしたのですが、これがタイヤの空気が抜けていてすぐには乗れません。それで空気入れを買ってくるまでの間徒歩で移動することにしました。
ところがこれがよかったです。
この季節、世間の家々の庭には色とりどりの花が咲き乱れているではありませんか。それを眺めながら足を運べば、少しぐらい歩いてもちっとも苦にならず、いろいろな花を見ながら歩いていると、気分までが華やいでくるようです。
巷では「スローライフ」という言葉が流行っているようです。ゆとりのある生活に加えて、ゆっくりとした移動というのも大切なのかも知れません。
生きることを味わうというのも必要なようです。
喜びは何気ない日常にあり、新しい発見も案外身近にあるものです。それに気づく心の平静を養いたいものです。静かで平らかな湖面には、美しいものが映し出されるものです。こころもまた同じです。
【朝顔や、つるべ取られて、もらひ水】
ある朝歌人が朝食の準備のために水を汲みに行くと、井戸のつるべに朝顔が巻きついてみずみずしい花を咲かせていました。その朝顔を引き剥がして水を汲むことがはばかられ、歌人は近所へ水をもらいに行くという次第を歌ったものです。
歌人がつるべに咲いた朝顔を見つけたとき、その朝顔が自分の中にすっと入ってきたとき、歌人は朝顔の【美】とともにありました。それは【絶対の瞬間】でした。
このように些細な日常の中に【美】の極致を見出すことができること、これこそが喜びでしょう。
川端康成が、ハワイで滞在していたホテルの朝のコップの美しさについて書いた散文を読んだことがあります。彼は食堂の窓際に並べられたコップに【美】を見出したのでしたが、それは澄んだ心のなせる業でした。
心を澄ましてみると、案外わたしたちの日常にも、美しいものは散在しているのかも知れません。
(写真:コロンボ郊外・路傍の草花 筆者撮影)

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4月24日(月) No,0007
私は輸入会社を経営していたときに、10回ほどスリランカに仕事で滞在したことがあります。
エアーチケットの関係で2週間の滞在が最も多かったのですが、現地に事務所を開いていたので、一番長いときで1ヶ月間、短いときで6日間滞在しました。
スリランカは、北海道を一回り小さくした位の大きさでティアドロップ型をしています。ご存知のとおり、インド洋の真珠と称されるインドの南に位置する美しい島国です。その更に南西はモルディブ諸島です。
人口は約1800万人で、その70%がブッティスト(仏教徒)です。スリランカはインドから仏教が伝播した最初の国です。アヌラーダプラなどをはじめ、世界遺産に登録されている仏教遺跡が点在しています。
スリランカの仏教は日本の大乗仏教とは違い、タイやミャンマーと同じく上座部仏教と呼ばれるものです。以前は小乗仏教ともいわれていました。
僧侶の妻帯は認められておらず、もちろん全員ベジタリアンです。私もいくつかの寺院へ行きましたが、どこも信仰の厚い老若男女でいつも賑わっています。それも観光目的ではなく毎日お参りに来る人がほとんどです。門前でロータス(蓮の一種)の花盛を求め、それを捧げてお祈りするのです。
また寺院には必ず菩提樹の接ぎ木が枝を広げており、人々は錫の甕に入れた水を抱えてその周りを廻り、菩提樹に水を注ぎます。僧侶による説教は講堂で毎晩行われており、たくさんの人が聞き入っています。
スリランカで有名なのは、宝石とセイロンティーと呼ばれる紅茶です。ヌワラエリヤ・ディンブラ・ウヴァ・キャンディと、名だたる産地がストレートティーのブランドとなっています
標高1800mを越える高地に位置するゴールデンバレーでは、一年に2週間しか収穫しないスペシャルシーズンティーが採れます。これは私がいままで飲んだ中で一番美味しかった紅茶です。
左の写真は、当時の事務所から歩いて5分の私がよく行ったレストランです。3人でビールを飲みながらお腹いっぱい食べて、日本円で300円しません。
中は簡素なつくりですが何だかカリプソにいるような気になってくる店で、もちろん観光客も来ませんし、日本人の客は私たちだけだったと思います。
店の入口あたりに大きな木が聳えていて、ちょうどいい木蔭を作ってくれています。近くに赤いメイフラワー(5月に咲くのでそう呼ばれている)の大木があり、とてもコントラストが美しかったのを憶えています。
熱帯に位置するスリランカは、美しい花が一年中咲いているところです。キャンディーという古都にある植物園は、世界でも最大級の規模と種類を誇っています。
フルーツもまた豊富で、町のいたるところに小規模のフルーツスタンド(店舗)があり、店先にたくさんのフルーツを並べて売っています。
バナナだけでも10種類くらい並べている店もあります。しかし、一番美味しいのはマンゴーです。これは本当に美味しいです。
私は毎日事務所の数件先のスタンドに通い、その場でジュースにしてもらって飲んでいました。
左の写真のものは、アイスクリームがトッピングされているタイプで、25円ぐらいです。アイスクリームがないプレーンなものだと20円ぐらいです。
完熟のフルーツしか並んでいませんから、その味を想像してみてください。
野菜もフルーツも年に4回は収穫できるので(5回収穫できるお米もあります)、一年中楽しめるのが羨ましいです。
他にも面白い飲み物や食べ物がたくさんあります。また折を見てご紹介させて戴きますのでお楽しみに。

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4月17日(月) No,0006
セールスマンの顔を見ると、「俺は買わないよ」という人があるそうです。
まだセールスマンがアプローチに入らないうちから、その手の人は先手を打つようにそう言うのだそうです。
恐らくこの言動には、その人の「怖れ」という感情が反映されているものです。
つまりこの男性は、自分がセールストークに弱いタイプだと自覚しているということです。勧められたら契約してしまう危ない性格だと自覚しているからこそ、「俺は買わないよ」と先手を打つのです。これはとりもなおさず「俺は勧められたら買ってしまう男だよ」と自白しているようなものです。
女性が飲食のサービスをする場所へ行きたがらない男性の中にも、そのような「怖れ」が影響している人もいます。その男性は、そのような場所が嫌いなのではなく、それを知ったらのめりこんでしまう自分が恐ろしいのです。そしてその男性はそんな自分の内面の欲求を感じ取っているのです。
人間は本能的に自分の弱点を知っていて、それから自分を護ろうとするものです。
人間の生命を護るための最後の選択は、立ち向かうか逃げるかです。この場合、その選択は「逃走」です。
私たちが根源的に持っている恐怖は、「大きな音」と「落下感」です。そのふたつは直接生命の危機を感じさせるものであり、ゆえに私たちはだれかれの差なくそのふたつに恐怖感を覚えるのです。
もしも、私たちがこのふたつ以外のことに、理由なく「怖れ」を感じることがあったとしたら、それには隠されたメッセージがあります。そしてその怖れ原因は、今生か過去世かの如何を問わず、間違いなく私たちの「過去の出来事」にあります。
出来るなら、私たちはその怖れの原因を探ってみるべきです。なぜなら、その「怖れ」の原因を知れば、その怖れは力を失い始めるからです。
私たちの自由な行動を妨げている「怖れ」という足かせを取り除けば、私たちはいまよりもっと大きな自由を達成することができるに違いありません。
(写真:スリランカの古都キャンディ・仏歯寺内 ドアの鍵の装飾 筆者撮影)

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4月14日(金) No,0005 満月
人間にはいくつもの側面が内包されています。
とても優しい人だと思ったら、冷たい一面があったり、憎たらしい人だと思っていたら、可愛らしい一面があったりとか。
でも、それは当たり前のことです。
あらゆる側面があるのが、それが人間だからです。だからこそ人間であり、人間は無限なるものの一部なのです。
私たちは時に他人を、生理的に嫌いだ、などと表現することがあります。訳もなく(自分でも訳が解らないが)嫌いだと感じていることを指す表現ですが、それには理由があります。
先ほどもいいましたが、人間にはあらゆる側面が内包されています。その中には、どうしても自分で許せない側面があるものです。そして、それが目の前の他人に投影されたとき、自分の中に在る許せない面を目の当たりにして、その人に対して嫌悪感が噴き出すのです。
つまり、自分の中にある許せない部分を他人に見つけ出したとき、そう感じるのです。それはとりもなおさず、自分の中に同じく嫌悪すべきものがある証拠だともいえるのです。
しかし、ある意味ではその人は、あなたにその嫌悪すべき面があることを教えるために、あなたの前に現れているのかも知れません。
世の中で起こることに偶然はありません。すべて必然なのです。
私たちが他人の中に嫌悪すべき側面を見つけたとき、それが自分の中にあるからこそ、それに気づいたことを忘れてはいけません。あなたの周りに起こることは、丸ごとあなたそのものなのですから。
(写真:コロンボ郊外の往来 筆者撮影)

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4月10日(月)
 No,0004
スタジオジブリのプロデューサーであり、数々のメガヒットを生んできた鈴木さんがテレビに出ていました。
鈴木さんのモットーは「自分を信じず人を信じる」ことだそうです。
どうも話を聞いていると、自分を信じないのではなく、人間を信じるという事のようです。
そうすると自分ひとりの考えよりも、たくさんの人の考えを集めた方がいいということになるのだそうで、しかし、他人という人間の働きを信じているわけですから、結局自分という人間の働きをも信じていることになりそうです。
誰でも「自分を計るものさし」で人を計るものです。物事の尺度は測るその人の中にあるということで、要はその人の世界観が映し出されているのと同じことですね。
スタジオジブリの宮崎監督は、鈴木さんによれば民俗学にも造詣が深いのだそうです。
そういえば、「千と千尋の神隠し」の千尋と白龍が名前を忘れる(絡め取られる)と自分を失ってしまうところや、湯殿へやってくる神々の働きの描写、「もののけ姫」の縄文系と弥生系の対比のなどのなかに、民俗学の片鱗がのぞいていました。
昔の日本人は、相当親しい人でないと自分の本名を明かさなかったのだそうです。千尋が名前を絡め取られて人間界に戻れなくなってしまったように、人の名前は呪術に使われる恐れがあったからです。
平安時代頃までは特に気を配っていたようで、中納言殿とか中将殿とかほとんどは官位で呼び合っていました。江戸時代のご存知遠山の金さん。あの遠山様も左衛門之丞は官位で名前ではありませんね。
呪術は別にして、現代は個人情報の面から、自分の名前を出さない方がいい時代になりつつあるようですが・・・
(写真:コロンボ市内・パラダイスロードカフェ 筆者撮影)

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4月9日(日) No,0003
徳川3代目将軍「家光」の時代、柳生宗則と沢庵禅師がともに虎の檻に入ったという話しがあります。
柳生宗則はご存知「柳生新陰流」の使い手でありますから、眼光鋭く虎を睨みつけながら檻の中に入っていたのだそうです。すると虎はその気迫に恐れをなし、後じさって蹲ったのだとか。
一方沢庵漬けの語源にもなっている沢庵禅師は、柔らかに微笑むような顔つきで檻に入っていきました。まったく虎を恐れない自他一体の境地に呼応したのでしょうか、虎は猫のように咽喉を鳴らして沢庵禅師に擦り寄ったのだそうです。
まさに対照的な虎との対峙の場面です。
沢庵禅師は遺言として、自分が死んだらこっそりと夜陰に乗じて寺から亡骸を運び出し、どこか山中か林の中に埋め、その上にだれぞの墓と推し量れぬように石さえも置いてはならぬと言い残して死んだのだそうです。もちろん葬式も供養も必要ないと付け加えました。
悟った人にとってはこの世はさながら演劇の舞台のようなもの。沢庵禅師という役柄を演じ終えたら、あとはただ舞台の袖へ退くのみ。そうしたら少し休んで、また別の舞台で別の役柄を演じるまでというわけでしょうか。「暫時もあらざれば死人に同じ」 なんとも羨ましい境地ではあります。
(写真:コロンボ市内・シーママラカヤ寺院の仏像 筆者撮影)

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4月8日(土) No.0002
私は普段の移動には、できるだけ自転車を使うことにしています。
少しでも運動不足を解決したい、という意味合いもありますが、実際地球環境にやさしい乗り物ですし、また自転車は気持ちのいい乗り物です。
移動する距離と時間との関係が、人間の意識にどのよう影響をもたらすかを私は知りませんが、あまり高速で長距離を移動すると、やはり疲れるような気がします。その疲れは、人間が本来もっている時間と移動距離のものさしとの関係にも影響しているのではないかと思わないでもありません。
実用面では、自転車で移動していると、停まったり寄ったりするのが自由でとても助かります。道端に綺麗な花が咲いていたらすぐに停まって近くから眺めることが出来ますし、狭い路地の小さな店をのぞくことも面倒ではありません。
自動車を降りて自転車に乗り変えると、普段は見過ごしている自然の営みや季節の移り変わり、街の表情や行き交う人の息遣いがよく見えます。いまの風や空気を皮膚感覚で知ることが出来ます。
また、道端に投げ捨てられているごみが多いことにも驚かされます。大地にごみを散らかして平然としていられるのは、大地を尊んでいない証拠です。自分が生かされている母なる大地を尊ぶことができないのは、つまりは自分という存在を尊ぶことができないからです。自分を尊ぶことができなければ、他人を尊ぶことはできません。
そして、老人や子供の歩行者や自転車を、自動車がどれだけ無視して走り回っているかも分かります。
私たち人間は、頭で(知識で)理解していると思っていても、それは実際身に滲みた蓄積ではありません。やはり実際にそういった立場や位置に身を置いてみることで、本当のことを識ることができるのではないでしょうか。
そういったことを考えると、私たちが何度もこの地上に転生してくることの意味も判るような気がしてきます。
今日は自転車で走行中に、「バンッ」という大音響とともに後輪がパンクしてしまいました。
不運な出来事ではありましたが、お蔭で比較的長い距離を歩く機会を与えられて幸運でした。やはり人間の基本は歩くことです。歩きながら考えを巡らすと、なんだか身の丈にあった思考に立ち返ることができたような気がして、不思議に晴れやかで、軽やかな気持ちになったものでした。
人間の移動には、自分の脚で歩くのがやはり一番気持ちがいいようです。どう転んでも、自転車までが精一杯かも知れません。
(写真:コロンボ郊外路傍の草花 筆者撮影)


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平成18年4月7日(金) No,0001
毎週水曜日の深夜に【オーラの泉】というテレビ番組が放送されていて、私は毎週興味深く視聴しています。
江原氏がオーラを視てカルテを作ったり、美輪氏が出演ゲストの【前世】などを霊視してコメントするするのですが、お二人の知識の正確さには感心します。
聞くところによると、江原氏は(財)日本心霊科学協会で学ばれたことがあるそうです。
日本心霊科学協会は、昭和の時代に活躍した【浅野 和三郎氏】が設立者です。
浅野 和三郎氏は確か東大英文科出身の海軍のエリートだった人で、息子さんの難病に関わって心霊関連を知り、その後出口 大仁三郎率いる【大本教】(正式には皇道大本でしたか)に入信された方です。
政府による大本教弾圧のあと、盟友である谷口 雅春氏とともに同教団を脱退し、谷口氏は【生長の家】という宗教団体を創設しました。
谷口・浅野両氏は英語が堪能であったため、イギリスやアメリカなど海外の心霊研究書を原書ですぐに読むことができることが幸いし、その後精神科学や心霊科学の研究を深められた方です。お二人は今井 楳軒氏にも影響を受けているようにも思います。
いずれにしても、江原氏の心霊知識の正統さは、心霊科学協会で学ばれたことがベースにあるからなのだと、妙に納得しました。
巷にはえせ霊能者などが跋扈し、迷信に毛の生えたような心霊知識を披瀝して人々を惑わすことがあるようですが、しっかりとした知識を身につけた人がテレビで心霊知識を啓蒙することは、とても意味のあることだと思います。
先日の回に格闘家の方がゲストで出演されており、その方が退行催眠でご自分のローマ時代の前世を再体験されたと話されたときも、美輪氏の催眠療法に対する知識の正確さには催眠療法士である私も舌を巻きました。
(写真:スリランカ・コロンボ市内 預言書「アガスティアの葉」を探してくれる事務所の入口 筆者撮影)



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