< ほ ん と う へ の 「ひとりごと」 >
  ◇ ほんとうへの「ひとりごと」  Vol.2 No,0024〜               


- Vol.2- 


◇ 「ブログ」というほどのものでなく、「ほぼ日記」ほどでもなく、ただつれずれなるままに、心象風景や感じたことなどを、気軽に書き連ねてみたいと思います ◇


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7月15日(日)No,0036

ようやく浜松市へ引っ越してきました。

大変お待たせしておりましたが、7月9日から浜松でのセッションも始めました。
今度のセッション場所は、自宅兼用です。
しかも古屋(平屋です)なので、以前のようなすっきりしたスペースとはいきませんが、それでも、勿論気持ちよくセッションが出来る環境ではあると思います。
そのようなセッションスペースですが、よろしければ予約を入れて戴きたいと思います。
よろしくお願いします。

引越しのときに、近くの縣居神社の神職の方に来て戴いて、家移りのお祓いをして戴きました。
宮司様は生憎多忙とのことで、若い神職様が来て下さいました。
とても真剣にお祓いをして戴き、感謝しています。

縣居神社は、賀茂真淵の御霊をお祭りしている神社で、以前はすぐ東の賀茂神社の境内にあったそうですが、今は独立しています。
縣居神社の西隣には賀茂真淵記念館も建っています。
賀茂真淵は江戸時代の国学者で、古典研究を通じて古代日本人の精神を研究した人物です。
門下生には本居宣長がおり、後の神道復古に繋がっていきました。

私の引越した先の地域の産土神社は、素佐之男神社です。
ただ、現在は神職の方が常駐しておらず、縣居神社の神職の方がお世話していらっしゃるとのことで、縣居神社様にお願いした訳です。

素佐之男尊といえば、古事記においては荒ぶる神として登場しますが、実際は初代日本国大王である、ニギハヤヒ尊の御父君です。
素佐之男尊が中心となって出雲から九州を平定し、その後息子であるニギハヤヒ尊が当時の大穀倉地帯である大和盆地にやって来て、最初の中央集権国家を成立させたのです。
大和より東は、当時はまだ蝦夷が支配する地域でした。
素佐之男尊は品格の高い人格者で、統率者としての力量も備えていたようです。
古事記とは随分違いますが、これは古事記を編纂した時代の権力者の都合によるものでしょう。

さて、よく氏神様と産土神社とを混同してらっしゃる方がいらっしゃいますが(私も以前はそうでした)、この機会に簡単に整理してみましょう。

氏神様とは、ある氏の一族が崇敬する神社のことを言います。
例えば奈良の春日大社がその代表でしょう。春日大社は藤原一族の氏神様です。

産土神社には、ほんらいは二つの意味があります。
ひとつは生まれたときから変わらない、一生をご守護して戴く意味での産土神社です。
普通は初宮参りに参詣した神社がそれにあたります。
この産土神社とはどこへ移り住んだとしても、一生涯を通じて守護関係が続きます。

もうひとつは移り住んだその先で、その地域を守護している神社です。
古来より日本では、小さな地域ごとに鎮守様が祀られています。
その鎮守様がその地域に住む人々の産土神社とのなるのです。

仏教が伝来する前まで、日本には神道という宗教用語はありませんでした。
生活のすべてが神との係わりの中にあったので、ことさら宗教として捉える意味がなかったのでしょう。
しいて言えば随神(かんながら)という語句が辛うじてあったのみです。

現在の私たちの生活は、随神とはかけ離れてしまっていますが、それでも生活のアクセントに神道(神社)は生き残っています。
神道には日本人独特の感覚が息づいており、それがまた私たちをして神道になお関わらせているのかも知れません。
八百万の神々を感じてきた私たち日本人は、多神教のように見えて実は一神教のような気がします。
自然の営みの一つ一つに神威を感じ、それぞれに神の力の現われをそのままに表現してはいましたが、それ以上の深い理解があったのだと思います。
日本人の自然観は西洋人とは対照的で、その感覚が神の捉え方にも通じているようです。
そういえば、古事記などに最初の神として記述されている天之御中主神さえも、生み出された神でした。
つまり、その天之御中主神を生み出した創造の神が観念の中には存在しているといえるのです。

さて、こうして素佐之男尊の守護のもとに移り住んで暮らすようになったのも、あながち偶然でない様な気がしている今日この頃です。
そのことについては、次の機会にまたお話しすることにしましょう。
もちろん、すべては偶然ではなく、必然なのですが・・・
(写真は後ほどアップします。しばらくお待ちください)

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6月5日(火)No,0035

私たちを取り巻く宇宙には、たくさんの星々が息づいています。
空気の澄んだ夜に空を見上げると、広大な宇宙のその断片が眼に飛び込んできて、まるで煌めく星たちが降ってくるような錯覚に陥ってしまいます。
私は中学生の夏に、自転車での小旅行に出掛けたとき、午前3時頃の夜空を山深い道路に寝転んで見上げたことを思い出します。
そのときの夜空の広がりが今でも甦ってきます。
頻繁に流れ星が現れることをほんとうに不思議に思いながら、私は飽かずに見上げ続けていたものでした。

私たちは、星の影響を受けて人生を送っています。
言い方を変えれば、それを見越してあるときある場所に生まれてくるのだ、ということもできます。
占星術は、その相関関係を私たちの前に紐解いて見せてくれるものです。

すべての物質は固有の波動を持っています。
私や、あなたもそうですし、大根も犬も自動車さえも固有の波動をもって存在しています。
そして、夜空の天体もまた、固有の波動で振動しているのです。

そうです。私たちは響きあう存在なのです。

星たちはその固有の波動によって、私たちの人生を運んで行きます。
しかし、私たちは帆のない小船に乗って漂流しているだけの存在ではありません。
そうです、自分の波動を変化させることで、私たちは星との響き合いをコントロールすることが出来るのです。

それでも、ネガティブな考えに毒されてしまったり、突如現れた障害のために自分の波動を変える力が弱まってしまうときもあります。
そのようなときには、鉱石(パワーストーン)が波動の調整を補助してくれるのです。
それは鉱石も固有の波動を持っていることに起因していますが、それだけではありません。
鉱石の波動は、対応する惑星の波動と連動しているからなのです。

つまり、パワーストーンとは私たちの身近にあるプラネット(惑星)なのです。
だからこそ、星とのバランスの崩れを修正する力が、パワーストーンにはあるのです。
パワーストーンと上手に付き合って、その力で自分の人生を修正して行きましょう。
パワーストーンは、そのとき弱まっているあなたと星とのバランスを、黙って補いつづけてくれるでしょう。


ここで私のパワーストーンコレクションをご紹介しましょう。

*12ストーンズ

スリランカは宝石の宝庫です。つまり、たくさんの石が眠っている場所なのです。
この12個の原石は、スリランカのダンブッラで見つけました。
色とりどりの原石が美しいバリエーションで並んでいます。
この原石たちからは、いつもとても強いバイブレーションを感じます。

*ローズクォーツ

スリランカの文化三角地帯に、ローズクォーツの山があります。その山から採れたローズクォーツです。
文字通り一山全部がローズクォーツなのですが、山頂近くにはブッタの像があり、今も樹木の上に住む修行僧がいます。
ローズクォーツの山は、とても不思議なパワーのみなぎる場所です。
私がこの山に登ったときも、どこからともなく3匹の犬が現れて道案内をしてくれました。
そして、山を降りて管理事務所が近づいてくると、どこかへ消えて行ってしまいました。

*ポリッシュした石たち

福島のスパハワイアンズの近くのおみやげ物屋さんで見つけました。
ひとつひとつ解説したくなりますが、沢山の種類のパワーストンです。
気が向いたときにひとつかふたつ、出掛けるときにポケットに入れたりして、その力を借りています。

*アメジストのクラスター

奈良の大神神社へ参拝した帰りに、伊賀の辺りのサービスエリアの輸入雑貨店で出会いました。
アメジストは第七のチャクラに働きかけてくる石です。

*タイガーアイの数珠とペンダント

いつも身に付けている守り石です。
主に第一のチャクラに働きかけてきます。
現実にしっかりと脚をつける事を助けてくれています。

*ナインクォーツのリング

スリランカで古来から信仰されている守護のリングです。
九つのクォーツが整然と嵌め込まれています。
このリングは、2350年の歴史があるキャラニアの古寺(ラジャ・マハー・ヴィハーラ)の特別な祈祷場所で、高僧に波動を清めて戴きました。
私が本堂でブッタの像を見上げていたとき、かの高僧の方から近づいてきて、彼は私がセラピストであることを言い当てました。
そして、私が手に入れたばかりのこのナインクォーツリング見て、本堂の一番奥にある特別な小部屋へ案内してくれました。
3体の仏像に囲まれた祈祷所で、高僧はこのリングと私を、多くの人のためにといって清めてくださいました。

*クリスタルのポイント

これも大神神社へ参拝に行った帰りに出逢ったものです。
クリスタルを覗くと、エベレストのような頂が美しく浮かび上がって封印されています。
これは私が見つけるべきものを示唆しているようです。
必要なときに自分のエネルギーや波動を増幅してくれる、とても大切でお気に入りのクリスタルポイントです。

*クリスタルクラスター

プライス高めのパワーストーンマーケットで購入しました。
外したタイガーアイの数珠を置いて、毎日のクリーニングに使っています。

すべてのパワーストンは、毎朝大神神社の三輪鈴でチューニングしています。
満月の夜には月光浴をさせます。
もちろん、手に入れたときには、入念にニュートラルに戻しました。

メタフィジカルヒーリングという言葉があります。
超物質的治癒と訳されますが、真に私たちは物質を超えた存在です。
そのことは、究極的にはパワーストーンなど必要がないということを意味しています。
心でどうにでもなるのだから、物質が立ち入る余地などないのです。

しかし、まだその域にまで達していない私たちには、パワーストーンは助けになります。
マイナスの念に沈んだり、弱まってしまった時期のある波動を、惑星との響き合いを調整して、バランスを整えてくれる働きがパワーストーンにはあるからです。
パワーストーンに依存するのではなく、その力を知ってその働きを利用することは、よりよい人生を歩もうとするときにきっと助けになります。
サポーターやパートナーとしての働きを期待するのは、理に叶ったことだと思います。
近いじかまたスリランカへ行く予定があります。その時には出来るだけ多くのパワーストーンを手に入れて帰って来たいと思っています。もちろんキャラニアの古寺(ラジャ・マハー・ヴィハーラ)で清冽な波動を取り戻してもらってです。そして、このウェブサイトをご覧戴いている皆さんに、是非お分けしたいと考えています。


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5月10日(木)No,0034

『立場』というものがあります。
「俺の立場からは、それは言えんよ」とか。「私の立場もわかってよ」とか使ったりするそれです。
勿論この『立場』は形のないものですが、私たちは時にその上に立って考えたり発言したり、行動したりします。

「私はそれほどの役職に就いているわけじゃないから・・・関係ないよ」と言葉を返す人があるかも知れませんが、少し待ってください。
その『立場』にも種類がいろいろあって、単に役職や社会的な地位などではなく、もっと私たちの身近にも『立場』はあるもののようです。

例えばそれは『母親』という立場だったり『父親』であったり、『妻』であったり『夫』だったり、また『親』『保護者』『経営者』『従業員』と挙げたらきりがありません。
きっとあなたもいずれか身近にある『立場』に立って、考えたりものを言ったり行動したりしたことがあるのではないでしょうか。

この『立場』というステージは、人間が社会的な活動を送る中で物事の概念化のひとつとして生み出してきたものでしょう。
しかし私たちは、その『立場』に立つがために不自由になったり、真実が見えなくなったりすることがあります。

本来私たちの生命(霊魂)に上下はありません。
経てきた経験の違いや、今生(現在)での役割の違いはあるかも知れませんが、それらはほんとうの意味での上下関係ではないはずです。
ところが、私たちが一旦この『立場』の上に立って事を成そうとするとき、たちまちに囚われが私たちを襲います。
それは人間の上下を生み出したり序列をつけたり、親子や夫婦といった特定の関係をもたらすことになるのです。

私は以前、中学生の子供を持つ母親から、その子供の生活態度についての相談を受けたことがあります。
そのときの母親との遣り取りからも、この『立場』というものの持つ恐ろしさを知りました。
母親は常に『母親の立場』からものを観たり、ものを考えたりしようとしていると感じたからです。
そして、母親の立場からしか自分の子供を観ていないことが、子供の『ほんとう』の姿を見失うことに繋がっていると思いました。

それはある種の色眼鏡で物事を見ていることに似ているでしょう。
フィルターを介して物事を見ているから、ほんとうの姿が見えていないと言うことでしょう。
母親という『立場』からいつも子供を観ているので、自分もかつては子供であったことも忘れてしまっています。
話をよく聞いてみると、いまの自分の子供の不満と同じ不満を自分も抱いていたと言うことが解ってきます。
でも、母親にはその不満が見えません。その訴えが届きません。
母親という『立場』が目隠しをしてしまっているからです。

私たちは母親である前に、人間です。根本はそこにあります。
会社の管理職である前に、人間なのです。それを皆忘れてしまっています。
どこかの何かに所属したり、何かの役割を担っていたり・・・でも、その前に『人間』なのです。

私たちが立つべきは、人間という『生命の立場』ではないでしょうか。
同じ霊魂の旅を続けるもの同士という、立場ではないでしょうか。
自分の子供をそのように見詰めるとき、その姿は別の存在のように映ってきます。
どうか時々、自分の子供の内なる存在に眼を向けてみてください。
そして、『生命の立場』から同じ旅人の姿を意識して感じ取ってみましょう。
そこに何が見えますか?

自分の存在に、出来るだけ限定を持ち込まないこと。
環境にも能力にも未来にも・・・限定の枠をはめ込もうとしないこと。
『立場』などは不要な限定です。
そんなものは捨ててしまってください。
捨て去ったその上で、もう一度立っていたその『立場』を眺めてみてください。
その立場が何で出来ているのかを確かめてください。

そしてその立場を客観的に見つめ、その功罪を知った上で、必要なときにその立場に立つことには、また別の意味があります。
もちろん、生命の立場という根本の足場を忘れず見失わずにいることが前提ですが。

普段知らず知らずのうちに身に付けてしまっている、いろいろな制服に気付き、そしてそれを脱ぎ捨ててみること。
着ているものや身に付けているものや持っているものから離れて、素の自分や他人に想いを至らせてみること。

シンプルなものほど美しさが際立つものですが、私たちも同じなのかも知れません。
まれにそのような人に出会うと、こちらの心の中まで洗われるように感じるものです。
潔いほどに簡素であるためには、そのものそのものの価値を識っていなくてはなりません。
そしてそのことを無言のうちに体現していることが、簡素である強さを支えているのです。

何でもないからこそ、何ででもあるという自由自在。
立場を捨てることから見えてくる真実は、そのことを識る契機になるのかも知れません。
(スリランカ・路傍の花:筆者撮影)


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4月15日(日)No,0033

イメージというのは、とても不思議な現象です。
普通それは私たちの頭の中で起こる現象ですが、ときに心の中で起こっているように感じることもあります。
私たちは何の気なしに自分の中にイメージを描きますが、私たちが自分の中に描くイメージには、私たちの人生を変えるほどの大きな力があるのです。

『バーチャルリハビリ』というものが近頃あるそうです。
語句が示すところは、バーチャルなリハビリ?すると仮想空間で行うリハビリ・・・
そうです、実際にリハビリをするのではなく、頭の中だけで「イメージ上(中)でリハビリをする」のです。
いまでは臨床実験とその検証によって、イメージ上でリハビリを行えば、実際に身体を動かしたときと同じような効果が得られることが確かめらているそうです。

ヒプノセラピー(催眠誘導療法)においても同じようなことを行うことがあります。
それは例えば、飛行機恐怖症で飛行機に乗れない方の場合です。
このような症状があるときは、段階を踏みながらイメージの中で飛行機に乗る体験をしてもらいます。
イメージの中で成功体験を積むことによって、恐怖感は徐々に薄らぎ、やがて実際に飛行機に乗ることが出来るようになるからです。

私たちの考えや日々の行動は、コンピュータのディスプレイに映し出されている『言葉や映像』に似ています。
コンピュータのディスプレイ上に映し出されるものが、コンピュータ本体に書き込まれたプログラムにしたがって表示されているように、私たちの考えや行動は、潜在意識に書き込まれている「プログラム」に従って表現されているからです。
私たちの多くは自分は自分自身の意思に従って行動しているように考えていますが、本当はそうではなく、実際は潜在意識に書き込まれている「プログラム」によって行動させられているのです。

潜在意識は善悪の判断をしません。
それは潜在意識にとっては善いことと悪いこととの分別がないからです。
(このことは、本質的な世界には善も悪もないこと、すべてを創りだす根源的な世界は、相対を超えた絶対の世界であることを示しています)
ですから、潜在意識は強い感情をともなってもたらされた『情報』を、善悪の別なくそのままプログラムとしてしっかり書き込んでしまいます。
そして、それらの書き込まれたプログラムが、私たちの考えや行動の源泉となって、私たちの考えや行動を動かしてゆくことになるのです。

このようにして、私たちを常に突き動かしているその潜在意識には、面白い特性があります。
それは「現実よりも、イメージを優先して受け入れる」という不思議な特性です。
そしてこの特性は、私たちがどのようにして明日を築いて行けばよいのかを教えてくれています。

先ほどのヒプノセラピーの例は、その特性を利用しています。
そして実際にそのメカニズムによって飛行機恐怖症は解消されるのです。
強い感情をともなって描かれたイメージは、実際に展開している現実をも打ち消して、私たちの明日(未来)を創りだして行くものなのです。

「諸仏は悉く 一切は心より転ずると了知し給う」
と、仏教の経典である『法句経』に書かれている通りです。
私たちが自らの『心に描くイメージ』こそが、私たちの現実を創り上げているのです。

『バーチャルリハビリ』のメカニズムと同じことが、私たちの自身の中で日々繰り広げられています。
そのことを私たちは心得ていなければなりません。
「あなたのおそれていることが、あなたに起こる」と、イエスキリストは言いました。
そして、「あなた方が神に祈るときには、どんなときでもすでにその祈りが叶えられたとして祈れ」とも言いました。

実際に身体を動かさなくても、思考の中(イメージ)で身体を動かせば、それは身体を実際に動かして行った『リアルリハビリ』よりも、場合によって(強い感情をともなったならば)は効果があるのです。
私たちがより良い明日をイメージの中にしっかりと描けば、それが現実としてやってくるのです。
それは『そうなりますように・・・』と描くのではありません。
それでは、『そうなりますように』と考えている未来がやってきてしまいます。
そうではなく、『すでにそうなっている』としてそれをイメージするのです。
そうすれば、『すでにそうなっている』ことが未来としてやってくるでしょう。

イメージとは、とても不思議な現象です。
多くの存在の中で、私たち人間だけが、その力を持っているようです。
それは、私たち自身が未来を創造できる存在であるということを示しているのに他なりません。
そしてその力を使って、どのような未来を創りあげるのかは、私たちに与えられた『自由』だと言えるでしょう。
どうぞそのイメージの力を使って、あなたの思い通りの未来を、あなたの自由意志で創造して行ってください。
『いまの私たち』は、過去の私たち自身のイメージが創りだしてきたものです。
そして、『明日の私たち』は、いまの私たち自身のイメージが創りだして行くのです。
私たちの心の中が現実となる・・・それが私たちの『人生』というものなのかも知れません。
(スリランカ・コロンボ市内 : 筆者撮影)

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3月22日(木)No,0031

呼んでいる胸のどこか奥で いつも心踊る夢を観たい
哀しみは数え切れないけれど その向こうできっとあなたに逢える
くり返す過ちのそのたび 人はただ青い空の青さを知る
果てしなく道はつづいて見えるけれど この両手は光を抱ける

さよならの時の静かな胸 ゼロになる身体が耳を済ませる
生きている不思議 死んでゆく不思議 花も風も街もみんな同じ

ラララララ・・・

呼んでいる胸のどこか奥で いつも何度でも夢を描こう
悲しみの数を言い尽くすより 同じ唇でそっと歌おう
閉じてゆく想い出のその中に いつも忘れたくない囁きを聴く
こなごなに砕かれた鏡の上にも 新しい景色が映される

はじまりの朝の静かな窓 ゼロになる身体 満たされて行け
海の彼方にはもう探さない 
輝くものはいつもここに 私の中に見つけられたから

ラララララ・・・

−「いつも 何度でも」作詞:覚 和歌子 千と千尋の神隠し挿入歌 −

これは皆さんよくご存知の大ヒット映画「千と千尋の神隠し」の挿入歌の歌詞です。
私は最近この歌を久しぶりに聴き、歌詞が湛えている奥深いメッセージに心を打たれました。

「宮崎 駿 監督」の作品は、どれも人間に対する愛情と生命への慈しみに溢れています。
また共通したテーマとして、自然と人間のかかわりや神道的アプローチをあげることが出来るでしょう。
「もののけ姫」では、縄文と弥生のせめぎあいを軸に、大自然のあらゆるものに「神性」を見出す考えが表わされています。
私は「大林 宣彦 監督」に次いで興味をそそられる映画監督の一人です。

この挿入歌の歌詞は、余分なものを洗い流してあり、とても美しいものです。
ですから、歌詞全体が表現していることと、個別のフレーズが含んでいるものとが響きあっています。
ひとつのフレーズのために歌詞全体があり、歌詞全体のためにひとつのフレーズが息づいているようです。

「その向こうできっとあなたに逢える」
私たちは、ほんとうの自分(あなた)と出逢うための旅をしています。
「人はただ青い空の青さを知る」
ほんとうの自分と出逢うためには、事象そのものを受容する心が必要なのではないでしょか。
「ゼロになる身体」
そして、肉体を沈黙させたとき、聴こえてくる声があるのかも知れません。
「死んでゆく不思議」
また、私たちにとって、死ぬことは生きていることと同じくらい、神秘的な出来事です。

一つひとつのフレーズは個別のいのちを持っていて、向き合う一人ひとりに別々の意味で語りかけてくるのです。
そうです、いつも何度でも。

(スリランカの国花 ウォーターリリー〔ロータス〕 :筆者撮影)

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3月15日(月)No,0030

笑いの効用が説かれ始めています。
昔から「笑う門には福来る」といいますから、昔の人は「笑い」について多方面の深い理解をもっていたのかも知れません。

いま笑いは自分を含めた周囲を和ませて、人間関係を築く助けとなったりするだけでなく、病を治すといった医療の分野でも注目され始めています。
例えばインドでは、貧困が原因で医者にかかれない人々を救うため、笑いの集会所が設けられているのだそうです。
最近日本でも、「笑い」の効用を医学的に検証する動きが活発になっています。大学病院などでも臨床実験が行われています。
ある病院と大学が行った、がんの患者さんに「お笑いのライブ」を観せて身体的な変化を見るという実験では、明らかに免疫力がアップしたことを示すナチュラルキラー細胞の数値上昇が確認できたそうです。

私は15年ほど前に、ある団体の修練に10日間参加したことがあるのですが、その修練のカリキュラムの中に「笑いの練習」というのがありました。
それは笑いの効用についての講義を受けた後、参加者全員で笑いの練習をするというものです。
次の日からは「笑いの練習」のために、毎日10分程度の時間がカリキュラムの前後に数回設けられていました。
そしてなんと修練の最終日には「笑いの大会」というものが開かれ、全員で30分間笑い続けてその笑いの質(クオリティーが問題なのです)を競ったのでした。
恥ずかしながら、私はその「笑いの大会」で見事準優勝を成し遂げ、賞状と記念品を戴きました。

30分間連続して笑い続けるのは、実際なかなか骨が折れることです。
最初の5,6分は練習の成果もあって楽しく笑い転げている間に時間はどんどん進むのですが、10分を過ぎから辺りから時間が粘っこくなってきました。
明らかに時間の経過速度が鈍り始めたのです。
15分過ぎ辺りが最大の山場でした。その頃になると現実の白けた意識がむくむくと頭をもたげ始めて、笑っていることを考えさせ始めるからです。
自分と笑いがほんの少し距離をあけているような感覚です。

しかし、20分を過ぎたところで不思議な現象が起こりました。
何やら自分の中で突き抜けたように笑い自体がころころ弾けはじめ、コントロールを失ったように笑いが自走し始めたのです。
こうなると、終了の30分が経過したことを知らせる鐘が鳴り響いても、もう笑いを止める術はありません。
身体の奥の方から自然な笑いが噴水ように湧き上がってきて、「もう、どうにもとまらないっ」のです。
笑いが自分で自分が笑いだというような、まさに笑いと自分が一体になっているような妙な感覚を味わうことになりました。
笑っている「私」というものが消え失せた瞬間だったのかも知れません。

禅の言葉に「掃除のときは、雑巾に成り切る」というものがあります。
笑うときには、「笑い」に成り切る、ということでしょうか。

最近の研究では、人間の体内にある遺伝子のスイッチを入れる働きが、「笑い」にあることが解ってきたのだそうです。
私たちは自分の細胞の中にある膨大な遺伝子の、たった3%にしかスイッチをオンにしていません。
そして、スイッチオンされている遺伝子の割合が上がればあがるほど、人間の人間としての働きが向上するのだそうです。
すると、どれだけいい笑いをして遺伝子のスイッチをオンするかが、人生の質に関わってくるかも知れないのです。
「笑い」が人生を築き上げる大きな要素であると考えると、なんだか笑ってしまいますね。
これから、もっとどんどん笑ってみませんか。
あっはっはっはっと、開闢の時ような、こころの底から吹き上がってくるような笑いで、生命が拓いて花咲いてゆくさまを表現していきましょう。
「笑う門には福来る」これは本当のことなのですから。


この人生は、ままならない人生ではありますが、その思うように運ばない人生をそのまま受け容れて、善い意味で諦念すること。
それが出来たなら自然に肩の力が抜けて、日々はとても楽に流れていくのかも知れません。
するとあたり前の毎日に対する感謝の気持ちがふぅっと湧いてきて、人生の喜びを味わうことが出来るのではないでしょうか。
そのとき私たちの人生は、ままならないままに素晴らしいものとなって、彩りを増していくことでしょう。

私たちの苦しみは「人生がままならないこと」にあるのではなく、そのままならない人生を「受け容れられない」ことにあるのです。
起こっている現実や現象や感情が私たちを苦しめるのではありません。
私たちを苦しめるのは、その現実や現象や感情との「葛藤」なのです。
いま人生に起こっている現実や現象や感情を、私たちはどうすることも出来ないかも知れません。
しかし、それらが私たちを苦しめているのではないのです。

私たちの苦しみの原因が、それら人生の現実などを受け入れられないという「葛藤」にあるのだとしたら、その苦しみは私たち自身がコントロールできる筈です。
葛藤は、相容れない「せめぎあい」から生まれます。
現実や現象や感情を受け容れられない心が「葛藤」を生み出すのです。
では、葛藤が生まれないようにするにはどうすればよいのでしょうか。
それは、自分に起こっている現実や現象や感情を、「そのまま」受け容れればいいのです。
人生に訪れる現実や現象や感情を、ありのままに「そのまま」に受け容れてさえしまえば、心のせめぎあいから葛藤がうまれることはないのです。

こころの底から湧きあがってくる「笑い」が、きっと自分の人生を受け容れる手助けになってくれることでしょう。
(スリランカ  アヌラーダプラ・ダンブッラ : 筆者撮影)


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3月1日(木)No,0029


春の花は「黄色」です。
菜の花や水仙などがその代表ですね。他にも春の野には黄色い花が沢山あります。
おしなべて黄色は、「わくわく感」を誘ってくる色のように感じます。
それは春がめぐる季節の「雛」であり、少し頼りなげではありますが、これから季節が成長する予感を含んでいるからでしょう。
ちなみに次なる季節、夏の花は「赤色」です。

春はまた、新しい出発にふさわしい季節でもあります。
昨日までの旧い自分に別れを告げて、新しい自分として新生するにはいいときです。
気象庁によれば、11月から2月までが気象上の冬なのだそうです。
そうすると、やはり3月は春の始まりなんですね。

春めいてくると、気分も晴れやかになってくるものですが、春が来ると逆に気が滅入る人たちがいます。
それは花粉症を患っている人たちです。
私自身も、かつて花粉症に悩まされた一人です。そういえば「花粉」も黄色ではありますね。

私の花粉症が初めて発症したのは、21歳の頃でした。その頃は勿論いまのように一般に周知されている病気ではありませんでした。
ですから私も微熱が続いて咽喉が腫れ、おまけに鼻水鼻つまりという症状から、てっきり風邪を引いたのだと思い込んで内科を受診したのでした。
しかし診察後に風邪だと思っていた私に告げられた病名は、「花粉症」でした。
「それは、どんな病気ですか?」と私は訊いたものでした。なぜなら、それはまったくはじめて訊く病名だったからです。

その頃花粉症は、まだしっかりとした治療法が確立されていなかったように思います。ですからそのときも、対処療法的な薬の処方だけだったと思います。
それから数年して、やっと体質改善の注射が行われるようになりました。

私の花粉症が一番重症だったのは、発症から4年目位のときでした。いまから20年ほど前のことです。
これがとてもひどい状態で、鼻水は流れっぱなし、眼の痒みは抉り出して洗いたい衝動を抑えるのに必死になるほどで、咽喉が腫れて呼吸が苦しくて、夜眠れないくらいでした。
そんなある日、テレビで興味深いプログラムを観たのでした。
それは、花粉症を自己暗示のような方法で治している、川崎市のあるセラピールームを扱った番組でした。

瞬間的に閃きがわたしの中に起こりました。
「これだっ、これで治るかも知れない・・・」
しかしそうは感じたのですが、川崎市まで通うのは距離的にとても無理なことでした。
そこでわたしは、自己流でこれを試してみようと考えたのでした。
その自己流「花粉と和解する自己暗示法」とは、簡単に記すと下記のようなものです。

○ 楽な服装で畳や絨毯の上に大の字で横になる。
○ 眼を閉じて、ゆっくりとした呼吸(できれば腹式呼吸)を行う。
○ 身体中の力を抜く「リラクゼーション」を行い、右腕が重くなる、左腕が重くなる、右足が熱くなる、左足が熱くな
  る、という自律訓練法のようなことを行う。
○ 身体全体が、光に包まれているイメージを作る。
○ 宇宙を創造した「意思」を意識する。
○ 地球はひとつの生命体であるということを思念する。
○ 宇宙を創造した「意思」によって、この地球はひとつの生命体として創られており、本来はすべてが「調和」の
  仕組みで成り立っていることを考える。
○ 生命体として、そして「調和」する存在としてある「人間」と「花粉」は、ほんらいの関係では傷つけ合うのもでは
  ない、と宣言する。
○ 自然の一部である「わたし」と同じく自然の一部である「花粉」は、自然を創った宇宙生命の創造者たる「意
  思」において「完全に調和している」のだとイメージする。
○ 「わたし」と「花粉」とは、いま和解した。そして調和の関係に戻ったのだから、「花粉」が私と対立したり、傷つ
  けたり、苦しめたりすることはない、と宣言する。
○ 私の身体を包んでいる「光」が、宇宙創造の「光」であることをイメージする。
○ すでに癒されたことに感謝して、「ありがとうございます」を何度も唱える。

以上が、当時私が行ったいわゆる「自己暗示法」の概要です。
この方法を一日1回40分行うことを1週間続けたあたりで、自分の中に変化が起こり始めました。
そして、その変化を信じて恐る恐るマスクを外すことにしました。それが私が花粉症と別れを告げた日となりました。
この場合、私が宇宙の創造意思を信じていたから上記のようなアファメーションになりましたが、信念体系は人それぞれです。

その日以来、私はほとんど花粉を感じないようになりました。
いまでも春のこの時期、花粉が大量に飛散する数日だけ、花がもぞもぞうすることがありますが、それを恐れる気持ちがまったくなくなったので、それ以上のことは起こりません。
花粉と和解し、調和したのですから、花粉が私を傷つけるはずなどないのですから。
自分の信じる方向で、和解と調和を構築することが何よりも大切です。
こうだからこうで、だからこうなって、そうしてこうなる、という、精密な理論たての後ろ盾が必要なのです。

私たちは、自分の中で葛藤があるとき、それを色々な「かたち」で外界に映し出します。
それはあるときは「病気」となり、あるときは「人間関係」となって、私たちに「葛藤」が何かを知らせようとします。
そして、葛藤から自由になる道は、「和解と調和」しかありません。
すべてのものと「和解」し、すべてのものと「調和」したとき、私たちは「ほんとうの自由」を手にすることが出来るのです。
花粉症はそれを私たちに教えてくれているのかも知れません。

(スリランカ ・ ダンブッラ石窟寺院 : 筆者撮影)

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2月21日(水)No,0028

「千の風になって」という歌が流行っています。
この歌の歌詞の原作者については、どうも諸説があってよく判らないようですが、世界各国で訳されて曲が付けられています。
日本の場合は、作家でシンガーソングライターの新井満氏が英文の原詩を日本語に訳して曲をつけています。
新井氏がこの歌を作るきっかけとなったのは、彼の友人の妻が亡くなった後に作られた追悼文集のなかにこの訳詩を見つけたからだそうです。
瞬時にその詩の素晴らしさを感じた彼は、数ヶ月かけて原詩(英文)を探し出して、そして自分なりの訳詩を作って曲をつけました。
それを昨年暮れのNHK紅白歌合戦でテノール歌手の秋川雅史さんが歌い、「千の風に乗って」のブームに火がついたようです。

以下にその訳詩を転載します。

「千の風になって」

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

あの大きな空を
吹きわたっています

−写真詩集「千の風になって」「千の風になって ちひろの空」(講談社)より−

肉体が死を迎えた後の消息については、物質的な見方と霊的な見方によって考え方が大きく分かれます。
肉体が死を迎えれば、その後には何も残らないし、何も継続しないというのが大方の物質的な考え方です。
その一方で、肉体が死を迎えた後でも、人間は何らかの形で継続するという考えが霊的な考え方です。

日本古来の霊的な考え方は、神道の「一霊四魂」によく表れています。
古神道では、人間は4つの魂からなっているひとつの霊であるという見方をします。
すなわち、荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)・幸魂(さちみたま)・奇魂(くしきみたま)の4つの魂が、「直日霊」(なおひのみたま)という1つの霊に束ねられているという考え方です。
人が死を迎えると、四魂の中の「荒魂」だけが埋葬された場所(いわゆる墓地など)に鎮まることになります。
これは荒魂が肉体的次元の活動に関連している魂だからです。
物質界での活動のために顕れている働きが「荒魂」ですから、いい換えればそれは「肉体」ともいえる訳で、肉体が死を迎えた後は埋葬された場所に眠っているのです。

「奇魂」とは、叡智の御魂であり、肉体が死して霊魂が脱したとき、直日霊に還る魂のことです。
「和魂」とは、肉体が死した後は天界に昇って、天界を拠点として多くの人々のために活動する魂の働きです。
「幸魂」とは、位牌などの祭祀されたところに宿り、祀ってくれた家族などを見守っている魂の働きをさします。

霊魂が継続するものである、という感じ方を私たち日本人は昔から抱えてきました。
肉体とは、霊魂が物質界で活動するための「皮衣」であり、皮衣たる肉体を纏った霊魂は、肉体の死後は脱魂してまた活動をつづけるという訳です。
−袖摺りあうのも「他生」の縁−とか、−「後生だから」お願いします−とか、私たち日本人が霊魂の継続を前提に言葉を交わすことがあることからもそれが分かります。
私たちは、自然の働きや営みの中にも神性を見出し、そしてなにより霊魂の存在を身近に感じながら暮らしてきた民族のようです。

「千の風になって」は、その考え方が私たちの心の底にあったことを再び気付かせてくれます。
そして、葬式仏教などに毒されていた感覚から目覚めさせてくれます。
−私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません。眠ってなんかいません−
この宣言は、まことに的を得ていてすこぶる爽やかです。

本来、身罷った者との接触や交信は墓地でなされるべきものではなく、身近な生活の中で自然に行われるべきものです。
墓標とは文字通り肉体として生きていた者のモニュメントです。そして、その場所に鎮まっているのも肉体という人生の亡骸としてのモニュメントなのです。

「一霊四魂」のなかの荒霊が墓地などの埋葬された場所に鎮まっていることは先ほど書きましたが、その荒霊は粗いバイブレーション(波動)をもった念体で、日常的に接するには陰の影響を受けやすいものです。
つまり、墓地は身罷った者と親交する場所としては、あまり相応しい場所とは言えないのです。
それよりも家庭にある仏壇の位牌を通じて「幸霊」に感謝したり、日々の生活の中で自分を囲む自然の営みの中に「和魂」の働きを感じて語り合ったりする方が、とても実際的です。
そしてこのような交わり方こそが、私たちと身罷った者との両者に対して、安らぎと癒しを与えてくれる触れ合いだといえるでしょう。

身罷ったものたちは、実はエネルギー(念体)として私たちのすぐ近くに寄り添っています。
それは「幽界」や「霊界」がこの世を抱き込むように重層的に存在しているからです。
私たちは、この世を去った近しい人たちと永遠の別れをしたのではないのです。
それどころか、実は私たちはこの世を去った近しい人たちといつでも触れ合える環境にいるのです。

近しい人や愛する人を失ったとき、私たちはその悲しみを忘れる必要などありません。その悲しみを乗り越える必要などないのです。
失った悲しみや苦しみとともに、いつも去っていった人たちを感じて行けばよいのです。
近しい人や愛する人が去っていったことを、その事実を受け容れられないのなら、それでもいいのです。
何故なら、それがいまのあなたなのですから。
そして、失った事実を受け容れられないでいる自分をなら、あなたは受け入れられるかも知れません。
もしそう出来るのであれば、その自分を受け入れてください。
それで、十分なのです。

霊的な観点からは、亡くなった人のことを執着の念で縛りつける事はよいことではありません。
毎日悲しみの涙を流したり、「去っていかないで欲しい」と願うことは、身罷った者にとっては重荷になります。
あなたの執着の念波動が、近しい人や愛する人が旅立つのを妨げないように、「千の風になって」の歌詞のようにいまも生きつづけていると感じてください。
実際に霊体としてのその人は、亡くなってはいないのですから。

私たちの生命(いのち)そのものは、死んだり亡くなったりしないものなのです。
なぜなら私たちは、霊的な体験をする肉体人間なのではなく、人間としての体験もする霊的存在なのですから。

「千の風になって」のブームが、私たちの本体がほんとうは「霊魂」であり、死者もまた霊魂であることを。
そして霊魂同士はいつでもお互いの存在を確かめ合えるものであるということに対する、理解を深める契機となれば素晴らしいことだと思います。
(スリランカ・シーギリヤの壁画・キャンディ 佛歯寺 : 筆者撮影)

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2月13日(火)No,0027

子供時代に自分の親に認めてもらえなかった(本当の意味で愛してもらえなかった・受け入れてもらえなかった)子供は、自分が大人になり子を持つ親になったとき、自分の子供を認めることが出来ないことがよくあります。
そのことは、自分の子供の力を信じられないという方向にも展開するので、自分の子供に対して過度の不安を感じたり、心配で仕方ないという表れ方をする場合もあります。
自分が親に認めてもらえなかったために、自分も「自分を認める」ことが出来ず、自分を認めることが出来ないから、同じように子供を認めることが出来ないのです。

この影響が継承されていくと、負の連鎖が続いていくことになります。それは前回お話したとおりです。
では、どのようにしてこの不信の連鎖から逃れていけばよいのでしょうか。

それにはまず、自分の身に起こっているすべてを受け入れることが必要だと、私は考えています。

そう感じていることは、そう感じているのだし、そう起こっていることはそのように展開しているのです。
あなた自身に、そしてあなたの周りに展開されていることは、紛れもないあなたのいまの現実です。
ですから、その現実から眼をそらそうとしないことがまず大切です。それはつまりはいまの現実をそのままに捉えるということです。
(注,それはいまの現実を受け入れるという意味にとどまり、この現実からの未来を(これからを)その流れから確定して受け入れるということではありません)

もしあなたがいま何かにつまずいてしまっていたとしても、それでいいのです。
間違いを犯していたとしても、それでいいのです。
何かに悩んでいたり苦しんでいたり、誰かを信じられずにいたとしても、それでいいのです。
それらを、そのまま自分に受け入れればいいのです。

人間はつまずいてしまうものなのです。
人間は間違いを犯すものなのです。
人間は悩み苦しむものであり、ずべてを信じられなくなるものなのです。

人間はつまずくから、素晴らしいのです。
人間は間違いを犯すから、素晴らしいのです。
人間は悩み苦しみ、信じることが出来なくなるから素晴らしいのです。

それはなぜですか?なぜ素晴らしいのでしょうか?

それは、つまずくからこそ真実に気付くことが出来るからです。
間違いを犯したからこそ、正しい道を知ることが出来るからです。
悩み苦しんでいるからこそ、その壁を突き破る力を発揮できるからです。
人を信じることが出来なくなったからこそ、信じることの誠を得ることが出来るからです。

人を憎むことが出来る人は、人を愛することが出来る人です。
中途半端で投げ出してしまう人は、やり遂げる力を持っている人です。
つまずく人は、そこから立ち上がることが出来る人です。
間違いを犯した人は、正しい道を知っている人です。
悩み苦しんでいる人は、すでに答えを持っている人です。
人を信じることが出来ない人は、人を信じることが出来る人です。

私たちは、「すでにすべてを備えている」存在なのです。
あらゆるものは、いま私たちの「なか」にこそ在るのです。

ある方向にエネルギーが向かうためには、実はその方向と正反対の方向へ、同じだけのエネルギーが必要です。
つまり、人を憎んでいる人は、実は同じだけのエネルギーで人を愛する力を持っていることを、そのことで顕してもいるのです。
自分を信じられずにいる人は、同時に自分を信じることが出来る人でもあるということです。
信じられないということは、そのまま信じられるということの証明なのです。

私たちは、自分のある一面だけを視て、それが自分であると思いがちです。簡単に自分を限定して、小さな枠の中にはめ込んでしまいやすいのです。
しかし、ある一面があるということは、その一面の裏側の面もあるということを忘れてはいけません。

私たちは自分の周りにあらゆるものを見出します。
愛、憎悪、悲しみ、喜び、勝利、敗北、獲得、喪失、それこそありとあらゆるものを感じます。
そのことは、私たちのなかにそれらすべてが「ある」ことの顕れです。それらを感じて見出すことは、それらが自分の中にあることの証なのです。

私ははじめに、「自分の身に起こっているすべてを受け入れる」ことが必要だといいました。
その意味をもう一度考えてみてください。
なぜ、自分の身に起こっているすべてを受け入れる必要があるのでしょうか?
あなたに起こることは、あなたの中にあるものだけです。あなたに起こることは、あなた自身なのです。
だから、あなたは「自分の身に起こっているすべてを受け入れる」ことが必要なのです。
それは、そのまま「自分自身を受け入れる」ことに繋がっているからです。

迷うのもあなたであり、悟るのもあなたであり、裏切るのもあなたであり、信じるのもあなたであるのです。
だから、迷うことも悟ることも裏切ることも信じることも憎むことも愛することも、すべてが素晴らしいのです。
そして、そのどれもが必要なものであり、自分の中に否定するべきものではないのです。
あなたは自分自身と戦う必要などありません。
自分の考えや感情を否定して、退けようとしたり、克服しようとなどする必要はないのです。

あなたはいま、「そのままのあなた」でいいのです。
いまのままで、それで十分なのです。あなたに足りないものなどほんらいないのです。
もし、無いと感じているとしたら、それはあなたが気付いていないだけのことなのです。

そして、自分の中にある「愛せない部分」を受け入れたならば、その裏返しに「愛せる部分」をも受け入れなければなりません。
それは、暖かい・冷たい、長い・短い、重い・軽い、といった、あらゆる相対的なもののすべてを抱えているのが、あなた自身だからです。

このようにみてくると、私たちは「自分で自分を認めて受け入れる」ことが出来ると思えるのではないでしょうか。
そして、自分を認めて受け入れることが出来れば、私たちは自分の子供を同じように視ることが出来るはずです。
そうすれば、自分の子供の「そのまま」を認めて受け入れることが出来るでしょう。
すると、親に認めて受けれてもらえた子供は、自分を認めて受け入れることが出来るようになります。
そうすると、自分を認めて受け入れることが出来た子供は、自分の周りの人を自然に認めて受け入れることが出来るようになります。
すると、その子供は同じように周りからも認められて、受けれてもらえるようにもなるのです。
なぜなら、人は自分を認めて受け入れてくれる人を、認めて受け入れるものだからです。

あなたが現実から眼をそらせると、あなたにとってのその現実は事実以上の力を持ちはじめます。
しかし、あなたがその現実をしっかりと見据えたならば、その現実はただの現実でしかありません。それ以上の大きさで反映されることは決してありません。
あなたは「そのままのあなた」を、あるがままに受け入れさえすれば、それだけでいいのです。
(スリランカ・文化三角地帯(シーギリヤ,アヌラーダプラ,ダンブッラ):筆者撮影)


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1月31日(水)No,0026

親子というものの不思議は、その関係を紐解くたびに私たちの心を揺さぶらずにはおきません。
特に私のように「ヒプノセラピスト」として活動していると、皮膚感覚としてそれを感じざるを得ないのです。

押し並べて、「家族」というものは特別な関係にあるものですが、「親子」というものはとりわけて特別な関係のようです。
母と子・父と子という絆を私たちに与えて、天は私たちに何を体験させようとしているのでしょうか・・・

子供にとって親は特別な存在です。
子供なら誰でも自分の親に愛されたいと願い、また自分の親に喜びを与えたいと切望しているものです。
つまり、子供は誰でも自分の親に自分を受け入れて欲しいと思うものですし、親の心を自分が満たしたいとも思っているのです。
そして同じようにすべての親は、子供のことを心から愛し、あれこれ心を配ってもいるものです。

いろいろな親子関係を見つめていくと、不思議なことに気付きます。
それはまるで車輪が巡るように、親子の関係が繰り返されていくことの不思議です。

私たちは幼い頃の両親とのかかわりあいの中から、愛情についての最初の体験を積んでいきます。
それは現世での存在そのものを左右する体験であり、それがために刺激的な体験でもあります。
そして、それらの体験から築いていく自分にとっての愛情表現の原風景が、その後の私たちに深い影響を与えていくことにもなるのです。

ある面で未熟な親(未熟でない親などいないのですが)との間で交わされる愛情関係は、総じてとても危うい綱渡りのようなものです。
その中で私たちは「愛のかたち」を造形し、そしてそれを確かめるように表現してゆくのです。
すべて存在は「愛」から生み出され、愛をかたち造り、愛を確かめるように求め、そうして愛のなかに収束されていくものなのかも知れません。

私たちが忘れてはいけないことは、それらの「愛」の原型を、私たち自身が生まれながらに「すでに」持っているということです。
自分の中にないものを、自分の外に見つけることなど決して出来ません。
自分の中にないものを、私たちははじめから見出そうなどとしないものなのです。
私たちは自分の中に「愛」が満ちているからこそ、そのことを体験するために「愛」を探し求めるのです。
その探し求める行為の最初こそが、両親とのかかわりの中で為される体験なのです。

もしもその行為で「愛」を見つけられなかったときには、私たちは自分のなかに「愛」がないと思い込んでしまうことがあります。
そしてその思い込みは、自分のなかに「渇き」を呼び起こします。
自分のなかに「愛」がないと思い込んでしまうことが、愛に対する「渇き」を生み出すのです。
このことは根源的な不安を私たちに感じさせる「恐れ」となるので、私たちは自分のなかに「偽りの原型」を作り上げてその「恐れ」から逃れようとします。
つまり愛されないほんとうの自分を封印し、自分以外の誰か(特に両親)に対して「愛される自分」を演じることで、「愛」を体験しようとするようになるのです。
それは自分自身を受け入れることをあきらめ、自分自身を信じられなくなることの始まりです。

もしも、それでも「愛」を体験することが出来なかった場合、私たちは「ほんとうの愛」ではないものを、無理やり「愛」であると思い込もうとすることになります。

私たちの潜在意識は「善悪の判断」をしません。強い感情とともに体験したことは、そのまま深く潜在意識に印象付けられて刻み込まれることになります。
そうして、私たちは「ほんとうの愛」ではない表現を、「愛」の表現であると錯覚してしまうことになるのです。
潜在意識にとってそれは紛れもない事実ですから、やがて意識の奥底に刻まれたその誤った情報が、錯覚であると認識されずに私たちを支配するようになって行きます。
そしてそれは多くの場合、幸せとはいえない状況を作り出すことになってしまうのです。

そのようにして、「錯覚の愛」や「偽りの愛の原型」を感情的虚構とは認識せずに身につけることとなった子供は、やがて成長して大人になります。
そしてパートナーを得て子供を持つことになります。そうです、親になるのです
そのとき、「錯覚の愛」や「偽りの愛の原型」を纏った親が、我が子に対していったいどのように愛情表現をすることになるでしょうか。
そうです、結果としてその親は、自分の愛する子供に対して、倒錯した「愛の表現」を行うことになるのです。

恐らくはその親自身もまた、自分の親からそのようにして愛を育まれて来たからなのかも知れません。
そうしてこのようにして、「錯覚の愛」を絆にした親子の愛情体験の連鎖が、世代を重ねて繰り返されていく不思議が顕れてくるのでしょう。

しかし、この不毛な連鎖を続けていく必要などはありません。
唯一それを断ち切ることこそが、その連鎖が存在する理由だからです。
錯覚の愛の連鎖を断ち切る体験のために、その連鎖が顕れているです。

では、もしその連鎖に入ってしまっている親子があったとしたら、その親子はどのようにしてその連鎖の輪から抜け出せばいいのでしょうか。

そのことは、私たちの在りように重要な意味を投げかける事柄なのですが、それは次回の「ひとりごと」でお話しすることにしましょう。
(タイ・チェンマイの世界花博 : 筆者撮影)
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1月15日(金)No,0025

「浅き河も、深く渡れ」、という言葉が胸に残りました。
カムチャッカ半島クリル湖畔で撮影中に亡くなった、アラスカ在住の写真家<星野道夫>さんが好きだった言葉だそうです。
「アラスカ はるかなる大地との対話」という、星野さんとアラスカとの関わりを扱ったNHKの番組の中で紹介されていました。

星野さんを識ったのは、もう25年近く前です。そのころ写真家になりたてだった星野さんが、アウトドア雑誌に紹介されていたのがきっかけでした。
大学時代からアラスカに旅し、そしてアラスカに住むようになってからも彼は旅人でした。
写真家になることは、星野さんが旅人として生きるためのツールだったのでしょう。

私たちの日常は、平凡な事柄と時間の積み重ねです。しかし、その中にも珠玉の「時」があるのかも知れません。
いいえ、その中にこそもっとも大切な「何か」が息をひそめて気付かれるのを待っているのでしょう。
あたり前の日常も、深い意識で見詰めてみれば、それは「大河」でもあるのです。
対象がどうであるかよりも、それをどれだけ深い体験として感じることが出来るかが、私たちがそこから得るものを左右するようです。

大草原を移動するトナカイを待ちながら、誰もいない原野でひとり1ヶ月を過ごすとき、星野さんは何を観ていたのでしょう。
熊に怯えながら暗夜をテントで過ごして、熊のいないアラスカには魅力が無いと考えるとき、星野さんはアラスカそのものでした。
自分が何者であるかと問いかけるとき、それは同時に自分は何者でないかを識るときです。

同じ時間の流れの中から、どれだけのものを豊かに汲み取ることが出来るか。
そして、汲み取ったものからどれだけの「想い」を感じることが出来るのか。
人生という時間の集積の只中にいて、それをただの使い捨てた時間の塵芥にしないために、時には魂の瞳をしっかりと見開いて時間の河を渡りたいものです。

「浅き河も、深く渡れ」 この言葉をもう一度繰り返させてください。

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平成19年1月3日No,0024

新年明けまして おめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

あなたにとって、今年はいったいどんな年になるのでしょうか・・・?
§サンクチュアリ§は今年、「ヴェーダ占星術」と「ロータス(睡蓮)」という、二つのことに関わってみようと考えています。

まずひとつ目の「ヴェーダ占星術」についてお話しましょう。
ヴェーダ占星術は、簡単に言えば占いです。でも、これはとても優れた占術なんです。
この「ヴェーダ占星術」の鑑定を、§サンクチュアリ§は日本に居ながらにして受けられるようにしたいと思っています。

私が初めて本格的に占いに興味を持ったのは、小学4・5年生のころだったと思います。
銭天牛という人の「占い入門」という本を買って読んだのが最初でした。姓名判断や手相やコイン占いなどが子供向けに解説されていた本だったと思います。
どうして占いの本を読もうと思ったのかは、今ではよく覚えていません。
しかし、漠然とした未来への不安のようなものがその根底にはあったのだと思います。
その入門書を皮切りに、手相と姓名判断の本を数冊読みました。そして、学校でクラスメートの手相を観たりしたものでした。

それから現在に至るまで、時折思いついたように占いの本を手にすることがありました。
そういう時は、大概何かに思い悩んだり、壁にぶつかったりしているときでした。
私たちは時として、自分のことを自分以上に理解している誰かに、行くべき道を示して欲しいと思うときがあるようです。そして私たちは時に「占い」にその役割を託すのです。

世に占いの流派は数知れませんが、巷では「六星占術」が流行しているようです。
これは細木数子氏が考案したもののようですか、私は17年ほど前に、六星占術とよく似た占いの本を読んだ記憶があります。
著者は来ノ宮れい子氏(名前の漢字は違っているかも知れません)で「0(ゼロ)スター占星術」というタイトルだったと思います。

さて、世界にあまたある占術の中で、現在私が最も注目している占術は、はじめに書いた「ヴェーダ占星術」です。
この「ヴェーダ占星術」は約5000年前にインドで生まれたものです。
アーリヤ人によってその骨格がもたらされたヴェーダ典群は、哲学や医術や文学や呪術や儀礼を含んだ大きなくくりですが、そのくくり中にこの占星術が含まれています。

ヴェーダ占星術の特徴は、その精密さです。
ある人の運命を読み解くためには、まずその人が生まれたその瞬間の「天球」の星々の位置などを抽象化した、この占いの基本となる「ホロスコープ」が作られます。
このホロスコープにはいくつかの種類がありますが、基本となるのは「ラグナ」(アセンダント)と呼ばれる、その人が生まれた瞬間に獣帯(黄道帯・ゾーディアック)の東端から昇ってきた星を軸に作成されるものです。
分類のために「星座」が与えられますが、それはいわゆる西洋占星術とは異なる場合があります。
私の場合も、西洋占星術では双子座でしたが、ヴェーダ占星術では「水瓶座(アクエリアス)」でした。

ホロスコープには12の室(ハウス)があり、それぞれには星座があてがわれています。そして、どの室(ハウス)にどの星座が配置されそこにはどんな星(多くは惑星)が回座しているかを表示してあります。
それらたくさんの要素を掛け合わせて基本的な運命の流れを掴むのです。また、月や太陽を中心にして観たホロスコープを参考にする場合もあります。
運命の地図とも言えるホロスコープのほかにも、「ダシャー」というある期間の支配星を観ることもします。ダシャーには数年から十数年という長いタームのダシャーから、数週間のダシャーまでが細かく区切られています。
また、ホロスコープ上にある星がどのような状態であるかについても、その角度などから高揚と減衰が評価されるのです。

これらとてつもなく多くの要素から導き出される結果は、家庭の状況などの基本的な環境から、恋愛や健康や仕事などの未来の流れまでにわたります。
そして、ヴェーダ占星術師がこれらのことを語る(ホロスコープなどから読み解く)ことを「リーディング」といいます。
これはまさしく、ホロスコープなどのたくさんの要素から、その人の運命などを読み解いていく作業であるからです。
          
私はこの「ヴェーダ占星術」をスリランカで実際に体験しました。
その結果は実際とても興味深いものでした。それは、ここまでわかるのかという私事がたくさんリーディングされていたからでした。

日本でも、このヴェーダ占星術による鑑定を行っている占い師の方もいると思います。
しかし、この技術を身につけるのはとても大変なことで、やはり歴史と伝統があるインドやスリランカに一日の長があります。
インドやスリランカには、何代も続くヴェーダ占星術の家系がいくつかあり、それらの家系には代々伝えられてきた秘儀が数多く伝えられているからです。

しかし、いくらヴェーダ占星術が優れた占星術であっても、占星術のためにわざわざインドやスリランカに出向くのも大変なことです。
それでも出掛ける人もいるでしょうが、大抵は街の占い師や書店の占い本に行き着いてしまうものです。
そして残念ながら、満足な結果が得られなかったと感じる人も多いのでないでしょうか。

そこで今年§サンクチュアリ§は、本場の「ヴェーダ占星術」の鑑定を、日本に居ながら受けることが出来る方法をご提供させて戴きたいと考えたわけです。
サンクチュアリのホームページを通じて申し込めば、スリランカのヴェーダ占星術師による鑑定が簡単に受けられるようにしたいと思っています。

具体的には、ホームページ上からお名前・性別・生年月日・生まれた時間・場所などの必要な情報を入力して戴き、その情報をサンクチュアリがスリランカの著名な占星術師の先生の事務所に送ります。
そして、占星術の事務所でホロスコープなどを作成し、占星術師の先生にリーディングしてもらいます。
得られたリーディングは、シンハラ語(スリランカの国語)でフォーマットに沿って記述してもらい、それを日本語に訳してお届けします。
あらかじめあなたが聞きたい特別な質問を、基本フォーマットのほかに3つ程度ご用意して戴こうとも考えています。
また、一度ホロスコープを作成して鑑定をご利用して戴いた方には、随時ピンポイント鑑定もご利用して戴けるようにしたいと考えています。
まさに自分の街に居る身近な占星術師に相談するように、相談したいときに相談したい事柄についてタイムリーに鑑定してもらえるようにしようと思うのです。


次に、二つ目の「ロータス(睡蓮)」についての関わりの話ですが、これはもちろん「花」との関わりです。

日本人ならば大概「蓮(はす)」という花をご存知だと思いますが、スリランカにもこれによく似た「ロータス」という美しい花があります。
この花はスリランカの国花ともなっていますが、もちろん仏教とのつながりも深いものです。
スリランカの人々は、このロータスを仏様への捧げ物として使いますが、日本でいういわゆる葬式花ではありません。日々の信仰とともに生きている気高い花なのです。

このロータスは、スリランカの湖沼や湿地帯や河口に一般的に自生している花です。街の生花店などでは売られていません。
寺院の参道脇で献花用に売られているだけで、つまり市場や流通には乗っていない花なのです。必要なときには割合簡単に手に入りますから、もちろん商業用に栽培している人もいません。
この美しい「ロータス」という花を、日本に輸入しようというのが、二つ目の関わりです。

私は昨年の11月にスリランカを訪問した折に、寺院脇でこのロータスを売る青年と話をしました。彼は貧しい家庭の青年で、一緒に弟の少年もロータスを売っていました。
青年は毎日のようにロータスを採取して、この寺院脇に数件ある同じようにロータスを売る出店に卸しているのだそうです。それが彼の生業です。
出店は数軒しかありませんから、青年に入る金銭はおそらく大したものではないでしょう。しかし、ロータス自体は供給先があれば毎日数千本でも採れるのだと私に話しました。
知人のスリランカ人に話を聞くと、その程度採取しても生態系に影響がないほどロータスは豊富にあるのだといいました。
それならば、この美しいロータスを日本の方たちにも楽しんでもらうのもいいのではないかと考えた野がこのかかわりの出発点です。
日本では蓮の花は高級品ですし、お盆の時期などにしか店頭に並ぶこともありません。
しかし、スリランカには豊富にあってしかも商業ベースには乗っていないのです。そして、そのロータスを日本へ輸入することで、学校へ行ける少年が生まれるのです。
         
スリランカは学費を国費でまかなってくれますが、労働力として貴重な少年たちは働き手(収入のため)として重要なため、貧しい家庭では学校に通っていない少年たちがいます。
日本のあちこちでスリランカの美しいロータスが利用されるようになれば、そういった少年たちの家庭に別の収入源が生まれ、少年たちが通学できる環境が作られるかも知れません。
少なくともあの青年の弟は学校へ行くことが出来るでしょう。
そして私たちは、秀麗なロータスの美しさを身近にすることが出来るという恩恵にあずかれるのです。これはまさに一挙両得です。

また、他にもスリランカには優れたものがまだまだたくさんあります。
例えば、「完全天日塩」やメープルシロップのような「椰子の蜜」や「紅茶」や「パワーストーン」や「ハーブ・スパイス」や「アーユルヴェーディックな商品」や「フルーツ」や「野菜」etc・・・
それらも合わせてロータスのルートに乗せることが出来れば、その幸せの輪はもっと広がることでしょう。

この関わりは私一人ではとても出来るものではありませんが、もし手を貸してくれる人が何人かいれば、きっと出来るのではないかと考えています。
どうかお気持ちのある方はご一報ください。それぞれの得意な分野を活かして、一緒に関わってみませんか?是非お待ちしています。


これら二つに関わって、それを発展させて見たいというのが、今年の§サンクチュアリ§の年頭の抱負です。
よい関わりができれば素晴らしいと思っています。どうぞよろしくお願いします。
(ホロスコープ・ロータスなど 筆者撮影)

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